時は過ぎ、2000年3月。
年始にコンピュータが誤作動するかもしれないという「2000年問題」からスタートした20世紀最後の年。
3月のテレビでは、起きたばかりの日比谷線中目黒駅の脱線事故の報道が連日流れていた。
世間の喧騒をよそに、僕は春の息吹を感じながら、この日のために購入した真新しいスーツに袖をとおした。
一張羅を身にまとい、その一歩一歩を踏みしめるように向かった先は中央大学。
ずっと工事中だった多摩都市モノレールを横目に見ながら、自然と胸が高鳴る。
そう、今日は僕らの代の卒業式だ。
昨年末の納会で引退した4年生の中には、すぐに地元へ帰る者もいれば、寮に残って勉強したり、練習に参加したりする者もいた。
僕は、昼間は学校に通い、夜は新宿にある居酒屋でアルバイトをしながら、残りの学生生活を送っていた。
そのころの僕は、野球から離れた寂しさを感じる時間がないくらい、何かに追われていたような気がする。
中日ドラゴンズがリーグ優勝をしたおなじ日に、茨城県東海村のICOが臨界事故を起こしたことも、ダイエーホークスが日本一になったことも、耳から耳へと抜けていった。
1999年のプロ野球は、「雑草魂」の上原浩治、「リベンジ」の松坂大輔の新人ふたりが大活躍。それぞれが流行語大賞にも選ばれるほどだった。
そんななか僕のルームメイト・花田真人ことマー坊が、第35回ドラフト会議で、ヤクルトスワローズから5位指名を受けた。
その日は、まるで自分のことのように歓喜し、共に喜びをわかち合った。
他にも早大の藤井省吾(→ヤクルト)、明大の的場直樹(→ダイエー)、同じく明大の木塚(→横浜)、九共大の的場寛一(→阪神)、立命大の葛城育郎(→オリックス)、亜大の佐藤宏(→巨人)らが、ドラフトで指名を受けた。
PL学園のかつてのチームメイト、前田忠節は東洋大から近鉄へ、八尾フレンド時代の同僚、山下勝己も近大から同じく近鉄へ。苦楽を共にしてきた仲間も夢の舞台へ踏み出したのである。
「それぞれの道があるんやな……」
今までの人生は自分のことだけを考えてきた。人の動向などあまり耳にしようとしなかった。人がどんな生き方をしようが全く興味がなかった。
しかし、ドラフトによって夢を叶える者もいれば、指名されずに夢を断念した者もいる。
指名されたからといってプロで長くやっていける保証もない。
指名されなくても、社会人野球に入って再び夢を追う者もいる。
がむしゃらに突っ走るか、はたまた諦めて別の人生を歩むのか、色々な意味での見極めが必要となり、そしてその答えを迫られる。
大人になっていくというのはこういうことなんだと、つくづく感じるのである。
人が考えることに間違いなんてない。ましてや決断となると、そのときに感じた最善の答えなのだから、誰もとやかく言うことではない。
野球から離れてようやくわかった。
人を尊重することがこんなにも大切なことだと、日々気づかされたのである。
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