1 父母のこと。
         
 2 その頃の漁業の町:津田
          
3 豊かな自然に遊ぶ。
          
4 誕生
          
5 子供たちのこと。
          
6 老いての独り言
          
7 私の信条 

               

                     
   父母のこと。                    母は、花が大好きでした。
 「父」 明治36年生まれ、平成5年死去する。
徳島県徳島市津田町網元の家に生まれ分家する。


徳島市役所勤務を中途退職して脱サラ、再度、漁船を購入し、海を相手に生涯を終え
る。子供のころからの海大好き人間だったようである。


昭和21年12月21日AM4時19分に発生の南海地震当時、沖で網を入れていたとき、大音
響とともに突然、海流
が激しくなり、何が起きたのか不思議だなと思いつつ 帰港し
て、仲間から知らされたようです。


やや無口、酒を愛したが、煙草は喫煙せず、賭け事は せず、母(妻)を愛し、子供
たちを愛し、仕事を愛した真面目一筋といった人間であった。

唯一の楽しみは、酒と映画鑑賞、浪曲でした。子供たちには、民話とか映画、浪曲の
内容を噛み砕いて、よく話してくれた記憶があります。

「母」 明治36年生まれ、父と同年齢です。平成4年死去する。
色の白い、目の大きな絶世の美人であったといっても過言でなく、若いころは、近所、
町内でも評判であったようでした。こんな美しい母が、私たちの母親、子供心に自慢
の母でした。             
父は、母に人目惚れ?継続は力 ほぼ毎日新鮮な魚を持参しては、会話を楽しんだと
のことです。
大好きな女性と90歳近くまで伴に人生を送ることができた。
幸せな父であったと思い
ます。

子供は、5人 当時としては、普通の家族構成であったようでした。


子供の躾けには、厳格でした。礼儀作法、挨拶に加え、父母、兄姉への反抗的態度は、
徹底的に叱られ、家の外へ出され、反省するまで許してくれませんでした。
善悪についても、常に教えられ、悪人になってはならないが口癖でした。

子供たちには、沿岸漁業には将来性が少ない。サラリーマンになれとの指導を受け、
姉は銀行員に嫁ぎ、他の4人は、会社員、公務員の職業を選択し、定年まで任務を遂行
しました

                  
  
その頃の漁業町:津田          
 
 
     
  
主流は、打瀬網漁法とバッチ網漁法 魚を捕獲する漁師が多かったよう
です。
打瀬網漁法は、自然の風帆に任せて網を海底に沈ませて引き回し、流してい
くといった悠然とした漁法です
。         
                                        
海底に住む海老・蛸・ヒラメ(平目)・カレイ(鰈)等々を漁獲していました。
車海老・足赤海老の大きいのには、子供心にびっくりしたものでした。

現在は、機械エンジンで船を走らせながら底引き網を駆使して、魚等を根こそぎ捕獲
しているようですが、大正・昭和初期には、エンジンで網を引くと検挙され、罰金刑
に処せれていたようです。

地元漁師の話では、自然保護に配意しながら魚量を増やし、細く、長く漁獲すること
が大切だが、生活もあり難しいとのことです。


バッチ網漁法は2艘の船が、ズボン(バッチ)のように網を囲むようにして魚を獲りま
す。鰯(いわし)・鯵・いかなご・ちりめんといった小魚が対象です。

中には、大きな魚も入っているようです。        

地曳網も優雅で、楽しい漁法の一つでした。子供の頃、お手伝いして網を引くと、魚を
少しいただけるという魅力がありました。その他、
釣り舟・貝等の漁獲舟等々行き交う
風景は、思い出として残っています。


  漁業の町:津田の現況(18・7・30)

    
      
 底曳き網:漁船・停泊             津田港大半のバッチ網:漁船は出漁中         
    
        
 底曳き網:漁船                   底曳き網:漁船
    
      
 津田港:出入り口                    釣り船等小舟
    
      
バッチ網漁:漁船 その網:ローラが船尾(とも)に見えます。
    
    
バッチ網漁:漁船の船尾(とも)             中型タンカーが停泊中
    
        
津田:八幡神宮                    津田:八幡神宮
    
    
 漁業の町:繁栄を祈願して奉納            八幡神宮境内の大くす
                                    (徳島市天然記念物に指定)




         
                    
       
  
漁業の町、津田の秋祭りは、豪快そのものでした。
各町内に、それぞれ祭り屋台:神輿(通称サッセ)を所有し、5台が練り歩く豪壮な風景
は、今も、脳裏に思い浮かべることがあります。

私が所属していた町内の祭り屋台:神輿(サッセ)は、「晴れ相撲」の名で活躍していま
した。そのサッセの後に付いて、八幡神社へ行ったものでした。
  
漁業全盛期には大相撲の力士を招待していたそうです。 
 
 

男衆40数人が、祭り屋台:神輿(子供4人が、神輿内で太鼓を叩く)を背に担いで練り歩く。並足
で駆ける。時には、両手で持ち上げる一気差し。最後には、威勢よく天高く空中に投げ飛ばす。
そして受け止める。


その高さを競うその瞬間、観客の歓声が一段と高くなりクライマックスを迎える。
その繰り返しに感動したものでした。

後年1950年頃と思われる。沿岸漁業の漁獲量減少と担ぎ手である若者離れから衰退していくこ
とになる。
復活は、町の活性化に繋がるだけに是非実現してほしいものである。


津田八幡神社の通路は、境内付近には、露天商が並び、かつて賑わった新町商店街もどき
の集人力とイベントに年内行事の楽しみの一つでした。

家庭内にあっては、親戚が集い酒盛り等々親族団欒の場であったようでした。

核家族化した現在、団欒、お付き合いの場は、少なくなったようです。

 
漁業の町、津田は活魚料亭もあり、町全体が活気溢れた町でした。

 
現在では、一部漁業従事者を除き静かな住宅街として栄えています。
            

   豊かな自然に遊ぶ
     
         

              徳島市津田町:地図


                  
          ← →私が、10歳〜17歳位まで、ほぼ毎日走っていた津田海岸

 
津田海岸は、海岸美日本上位と言われていた時代もあり、遠浅、きめ細かな砂地の
ため、徳島市内の海水浴場として栄えていました。

海の家が建ち並び、魚介類は多く、家族特に子供たちにとっては、最高の遊び場で
した。  


現在は、木工団地として変身し、自然が少なく、人工的な海辺と化しています。
                 
  私の思い出
1 海岸線に沿って、ほとんど毎日走っていたこと。

2 夏には、海水浴場として活況していたこと。

3 海岸では、白キス、カレイが、堤防では黒鯛・鯵・鯖等が釣れていたこと。

4 釣り餌は、付近の石を持ち上げるとゴカイ、小さなカニがおり、餌は無料で確
保できたこと。

5 海辺を鍬で掘れば、小さな穴があり、その中へ塩を少し入れると、まて貝が獲
れたこと。100前後、あっと言う間の収穫でした。

6 台風が来襲し、翌日西の風が吹けば、海岸線に沿って、貝(バカ貝・鳥貝・蛤・
赤貝等々)が打ち上げられる。
家族総出でリヤカーに満載するほど拾うといった状態でした。
台風は、嫌でしたが、毎年の楽しみであったこと。

7 同じく台風後に黒鯛が集結する場所があり、小さなカニで必ず30cm級の大物が、
10匹前後釣れたこと。

8 以上のように自然環境に恵まれていたものの、漁師町特有の
いじめの実態は、
現在と違った悪質なものでした。

漁師町の子供たちは元気過ぎるくらい粗暴的集団を形成していたこと。

(1)喧嘩は、日常茶飯事 スポーツ(K1)もどきで、餓鬼大将の命によって毎日
誰かがさせられていました。

(2)ただ、今思えば、常に素手の喧嘩であり、武器・物を持たないという ことが
不文律の如く守られていました。

(3)命に逆らって、喧嘩を辞退すれば、村八分的な(半鐘)といういじめが待って
いた。半鐘(火災時に、消防署が鳴らしていた鐘)といって、餓鬼大将らに、殴られる。
また殴ることを命じられていた。

(4)一過性でなく、執拗に何度も何度も狙われた。

(5)小学5年・6年生には、餓鬼大将の命令で、津田ー沖の洲間約1kmを強制的に
遠泳させられたこと。
汽船・漁船が行き交う中での強行でした。1名が、死亡するという事故があり、以後
中止になる。

(6)その虐めと闘うことになる。
   
(7)その結果、餓鬼大将を含む漁師の子供たちから常に狙われることになる。
(8)集団に包囲されないよう気を付けていたこと。走ることが、ある程度得意だっ
たのが幸いしたようでした。

(9)先生・親・兄にも相談できず、自己防衛しつつ、狙われながら遠距離だが、
住職・政治家・公務員の家庭である同級生、1年先輩たちとの交流が始まり、友達環
境が一変する。

(10)良き友達との出会いがあったことは、最高でした。

9 良き友達との出会いは、読書を覚える機会を得たこと。吉川英治作:三国志・宮本
武蔵・太閤記等を夢中になって読むことができたこと。

10 負けるのが嫌いで、中学1年生から柔道を習うことにしたこと。
警察官だった兄から徳島市内の柔道場で教えを受けたこと。

11 このことが、結果的に将来の仕事に繋がることになったこと。施設対抗・個人選手
権高松管内柔・剣道大会:柔道の部に、5年連続(18歳〜22歳)で出場したこと。
  最終的には、講道館柔道4段の免許を取得する

12
四国三郎:吉野川河口には、6月梅雨の頃 青キス・白キスが多く早朝4時過ぎには、
父の船で津田港を出発、太陽が昇りかかるときから釣り始める。
午前中には、大漁・大量であったこと。特に、30cm級の青キスは吉野川しか釣ることの
できない希少価値のある魚でした。

13 釣れたことには、大きな理由があったこと。建築用の砂を採取していた船が、常時
数艘仕事をしており、漁師は網を入れることができなかった。加えて、砂を掘ることに
よって、餌となるゴカイ類が海中に散乱状態と多く、そこに魚が集まっていたこと。

14 さすが中学高学年、高校生になると、喧嘩・いじめもなくなり、平和そのもので、
勉強、運動部活動と不思議なほど安定した生活であったこと。

15 その他数多くの思い出がありますが、割愛させていただきます。

                    
  
誕生  

 1936年(昭和11年)9月23日:秋分の日に、私は誕生する。

            この年の主な歴史記録

 2月 5日  日本職業野球連盟チーム加盟で発足
 2月15日 ヒトラーがフォルクワーゲンの製造を発表
 2月26日 2・26事件起きる。
 3月12日 中谷宇吉郎らが人工的に雪の結晶を作りだす。
 3月25日 ソ連国境で日・ソ衝突
 4月18日 外務省が国号「大日本帝国」元首称号を天皇と統一
 6月30日 米で小説「風とともに去りぬ」が発売、ベストセラーになる。   
 7月31日 第11回オリンピック開催地に東京決定
 8月 1日  第11回オリンピック・ベルリン大会開幕
水泳の前畑秀子ら6個の金メダルを獲得
10月 1日 大阪・徳島(横須海岸)・高知間に定期航空路開発
10月13日 パリ−ロンドン間に直通列車「ナイト・フェリー」開通
11月23日 米で週刊の写真雑誌「ライフ」創刊


 雪の2・26事件、青年将校ら決起

 2・26降雪の未明、皇道派青年将校が決起、兵士約1400人を率いて斉藤内大臣、
 高橋蔵相らを殺害する一方、国政の中枢部を制圧するも、翼27日には戒厳令、
 29日には「原隊復帰」の奉勅令が下された。
  29日には「反乱部隊」として包囲され動揺した下士官、兵士らが続々と復帰した。
 
15将校が銃殺に、北 一輝らも死刑に処せられた。

 安価な徳島市立の簡易食堂が開店

  5・18中洲橋畔ガード横に、徳島市立食堂が新設され、新鮮で栄養価の高い食事
 が、労働者や旅行者に喜ばれたとのことです。
 徳島市の福祉事業の一つとして、戦後もしばらく続いていたそうです。

 前畑 ガンバレ!ベルリン五輪    

 8.1第11回オリンピック・ベルリン大会が、ヒトラーを大会総裁に開幕。次期大会
 が東京開催という日本選手は、水泳200m平泳ぎの前畑秀子選手、陸上三段跳びの
 田島直人選手などが金メダルを獲得した。、


 西の丸運動場(現・内町小学校ほか)でプロ野球     

 阪急対名古屋戦が、実施された。
                   

  子供たちのこと。     

1 私たちは、1962年(昭和37年3月)に結婚。そして二児.長男・長女を設けました。

2 長男出生は、私が、1968年TK研修所(東京都府中市)で勉強後、入浴中に電報で
知らされました。


3 府中市で起きた3億円強奪事件が発生した年です。研修所の近くで発生し、捜査等
のヘリコプターの騒音で、教師の声が聞こえないほど大変な事件に大騒ぎしたものでし
た。


4 1969年、徳島で長女が誕生、あっという間に、二児の父になりました。いわゆる年
子誕生です。


5 それからが、子育て、転勤・転勤・転勤・・・と苦労の始まりでした。

6 長男2歳、長女1歳での、転勤生活のスタートでした。


7 子供たちから、私たちには故郷がないといわれることが、一番辛いことでした。
転勤を通じて、経験させたことは、良かったか、悪かったか。子供の人生を見守っ
てやりたいと思っています。


8 長男は、小学校4回転校 ・中学2回転校しました。
  長女は、幼稚園1回転校 ・小学校3回転校しました。


9 2人ともに、いじめに会うこともなく、学業も上位のランクを維持し、滋賀県
大津市の伝統ある高校を経て、近畿内の国立大学に合格したものの東京の私大に
進学し、卒業しました。

10 嬉しかったことは、長男が高校時代、旺文社実力テストで数学が滋賀県第1位、
全国2位になったときでした。
有名進学塾から、授業料無料で勧誘され、経済面で助かりました。

11 長男は、K大学校:K大学院を卒業後、東京一部上場企業の一つに就職し、
技術畑で勉強中です。
2006年4月フィリピン工場へ技術指導のため転勤、2007年6月帰国、新中央工場チー
ム・リーダーとして活躍、その後、2009年再度フィリピン工場へ出向。
驕ることなく、常にプラス思考と研究心等をもって、会社発展の一員として、自己
を磨いてほしいと願っています。
2007年7月、オーストラリア・ケアンズの教会で挙式しました。      
 
建設的な自分たちの生活の場を、二人三脚の心を忘れず、築いてほしいと祈念して
います。

12 長女は、A大学校卒業後M化粧品会社:東京支店を経て結婚し、静岡県で二児
の母として子育てに熱中しています。

13 子供たちが、徳島へ帰省してくれることが、私たち親にとって、楽しみの一つ
になっています。

14 長女の主人から、孫2人の写真等のメールが届きます。 嬉しいです。
孫の成長の記録として、印刷し、アルバムにしています。

15 フィリピンで勤務中の長男とのメール交信が唯一の楽しみの一つです。

16 老齢になってからですが、パソコンを勉強していて良かったと実感しております。
ご教示くださいました方々に感謝しております。

17 ホームページについて、私の尊敬する寒川治雄先生から基礎について、ご指導を
いただきました。70歳の挑戦です。

18 ホームページの子供たちの反応・ヘェー親父がHP 見事といったメールが届きま
した。これからの内容充実が大きな課題です。

  
19 パソコンの文字入力(徳島新聞:鳴潮・読売新聞:編集手帳)は、平成14年1月1日
から続けています。継続は力です。

20 子供たちの幸せと健康をいつも心から祈念しております。

    
                                
 
 老いての独り言  

裏の社会を見詰めて現役で41年7カ月、定年退職後、篤志面接委員として、数10年、
併せて
50余年が過ぎました。
社会には、真面目、正直、建設的な人々が多い中、一部の人たちですが、人間性に欠
け、独善的、凶悪性、怠惰、非協調性等々自己本位、自己中心で、社会秩序を壊して
いる者がいることも事実である。


人間としての狡さ、性等を是正(矯正)することは、永遠の課題であり、未来永劫、
この世から抹消することは不可能である。


特に、凶悪集団を管理することの難しさは、体験したものでなければ理解しにくい。
閉鎖社会は、犯罪者を隔離し、教育するという目的、使命上やむを得ないことである。
人権は、平等であり、尊重することは当然であり、大切であるが、これが人間かと思
われる悪人がいることも事実である。                                
                                            
被害者、その家族の現実を理解することも重要である。


私は、人は殺さない。人を傷付けない。人の物を盗まない。人を騙したりはしない等々
を各個人それぞれが、実行できれば、反面、私は人から殺されない。人から傷を付けら
れることはない。人から物を盗まれることはない。人から騙されない・詐欺に会う事も
ない。平和な社会になることは間違いない。
しかし、相反して犯罪は後を絶たない。現在は、激増傾向にある。

三つ子の魂 百まで幼児教育の大切さ、人間として善悪を識別し、悪いことは絶対
しないことを徹底して教えることが必要である。

教育については、教育者、教育される者、父母等家族、第三者等々全ての国民が、足並
み揃えて、現在・将来に向かって考え、実行する必要があると痛感しています。

一部の親ですが、わが子に限って悪いことはしないとの過信が一番怖い。躾けも怠る。
第三者の大人も避けて注意もしない。

地震・雷・火事・親父」親父の怖さは、皆無になりつつある時代、寂しさを感じてい
る昨今です。

  私の信条  

間もなく
天寿を終わろうとしている一老人の独り言である。
継続は力」「力必達」「知るは力」、三つの力は、基本的な力として、自分を成長さ
せてくれる。

年齢は重ねても老いてはならない。加えて精神力気力」「年齢相応の体力を失っ
てはならない。
健康に配意しつつ、プラス思考で、残された私の道を一歩一歩...歩かねば、後悔するこ
とになる。後悔だけはしてはならない。

                     

                  
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