吹き替え人気に思う
高知新聞「所感雑感」('06. 8.31.)掲載
[発行:高知新聞社]


 近頃、映画は吹き替え版が人気のようだ。この夏ヒットの『M:i:Ⅲ』や『パイレーツ・オブ・カリビアン2』にしても、当たり前のようにして日本語吹き替え版が上映されていた。車マニアであるポール・ニューマンの声優ぶりがファンを喜ばせたアニメーション作品『カーズ』に至っては、高知では字幕版の上映がなく吹き替え版のみだった。

 少しあやふやな記憶だが、こういった吹き替え版の流行は2002年の『スパイダーマン』あたりからではないかと思う。『バットマン』シリーズにはなかった劇場公開時の日本語吹き替え版が『スパイダーマン』にはあって、目を惹いた覚えがある。

 諸外国では字幕版というのは稀で、吹き替え版が当たり前らしいのだが、日本では、世界に誇る識字率の高さに支えられていると思われる字幕版というのが、外国映画公開における標準スタイルだった。だが、“何かと言えばグローバル・スタンダード!”のおかしな波は、こんなところにも及んでいるようだ。台詞がたくさんあって限られた字幕ではうまく翻訳できない作品や何人もが同時に台詞を発している作品では、確かに吹き替え版のほうが作品理解に有効な気がする。しかし、吹き替え版が準備された映画の作品選択を見る限りでは、その基準がよりよき作品理解のためにあるわけではないことが明白だ。単純に「字幕を読むのが面倒だ」といった人々の集客のために用意されているように思う。

 だが、外国映画は字幕で観るのが当たり前で育った往年のファンからすれば、俳優自身の声と口調を味わえない吹き替え版はどこかまがい物に思えて、妙に物足りないのが本音だ。しかし、ネットやTVによる劇場型政治や報道のワイドショー化などによって、じっくり考えたり味わったりする面倒なことが嫌で、とにかく分かりやすさにのみ流されるように日々教化されているなかでは、日本の映画文化の状況も変化を来してくるようだ。時代を映し、社会を映し出す映画文化の世界での話だけに、些細なことのようでも、捨ておけないような気がする。

 2002年から強化された文化庁の日本映画振興策の奏功なのか、今年二月の本紙では「復活か邦画バブルか」という見出しで「日本映画が元気だ」と報じていた。実際、高知でも、六月末までの半年間に一般劇場で上映された150本のうち86本が日本映画で、盆休みのシネコンでの上映プログラム13作品に外国映画は5作品しかなかった。興行的には長らく一向に振るわなかった日本映画が元気になるのは嬉しいことであり、過敏になる必要はないのかもしれないが、私の目には、吹き替え版の件も含めて、ひどく世の中が内向きになってきているように見える。大衆文化の他方の雄であるポピュラーソングの世界では、映画に先駆けて、かつての洋楽優位がJポップに変わってもいる。

 '80~'90年代に流行していた“国際化”という言葉もいささか上滑りだったが、今世紀に入り一転して、身勝手の換用語としての自由としか思えない“自由主義史観”なるものを掲げて愛国称揚に傾けた言論が目立ち始めた。嫌中・嫌韓・嫌米などという品格も知性も欠落した言葉が氾濫し始めているのを見ると、危うさが気になって仕方がない。映画娯楽における吹き替え版の一事は大したことではないけれども、図らずも氷山の一角として立ち現れてきている面がなくもないというのが、昨今の世情ではなかろうか。
by ヤマ

'06. 8.31. 高知新聞「所感雑感」



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