『ネット右翼になった父』を読んで
鈴木大介 著<講談社現代新書>


 第一章に父のことを好きではなかったが、高潔さと愉快さを兼ね備えた思慮深い人物だったとは思っている。ならばなおさら、どうしてそんなにも父は偏向してしまったのだろうか。父の死をあまり哀しめない中、心の隅で考え続けた。(P23)と記した著者が、辿った足跡を第一章「分断」、第二章「対峙」、第三章「検証」、第四章「証言」、第五章「追想」、第六章「邂逅」としてまとめた記録だ。

 もっと社会学的な考察のされている著作かと思ったら、タイトルに「父」としているように、非常にパーソナルな、それゆえに観念性や学術性とは離れたノンフィクションになっていて、なかなか興味深く読んだ。結論的には、父親は決してネット右翼などではなく、父親をそのように断じた自分こそ「ネット右翼」というパッケージでラベリングしてきちんと父親に目を向けていなかったことへの気づきを得た息子の懺悔録になっていたように思う。

 ただ著者が当初に抱いた、ネットコンテンツのビジネス右翼に利用されたという側面に関しては、亡父がネット右翼であったか否かによらず、熱心な閲覧者であったとすれば、それだけで十分に利用されていたとは言えるような気がする。もっとも著者自身が、立ち位置は正反対ながら、閲覧者としてはかなり頻繁にアクセスしているようだから、熱心な閲覧者であることだけで利用されているとは言い難い側面もあるのだろう。使用しているのか利用されているのかの区分というのは、ネット閲覧に限らず、極めて微妙でどちらとも言い難い凭れ合いの構造が出来あがるとしたものだ。

 第二章で挙げられていた、著者の気に障った亡父の使っていたヘイトスラング七語「火病る」「特亜」「マスゴミ」「ゴミンス」「パヨク」「ナマポ」「ウリジナル」(P54~P55)のうち、僕が知っているのは「マスゴミ」と「パヨク」だけだったが、いかにもスラング的な響きの小汚さに、ある意味、感心してしまった。続く「記憶にある父の発言」(P56~P57)を読むとこうして書き出してみると、父の発言はやはり、非常に「ネット右翼的」だったと感じざるを得ない。(P57)と著者が記すのももっともだった。そして、その発言を五つに分類しているのが目を惹いた。①中韓(主に韓国)に対しての批判 ②社会的弱者に対する無理解(生活保護・シングルマザー・発達障害関連での発言) ③保守論壇の主張に含まれる「伝統的家族観の再生・回帰」「性的多様性への無理解」の影響を受けているように思えるもの ④ミソジニー(女性嫌悪・蔑視)が感じられるもの ⑤排外主義(日本文化の維持についての危機感)(P57~P58)だった。

 興味深かったのは、「mixiで右傾したつぶやきを投稿する友人らの共通点」(P60~)の項で、2005年から2009年当時の「顔の見える相手」とのmixiでのことだったという記述だった。内容的には、僕も経験していることだが、mixiに招待されて2006年4月から続けている僕は、mixiではそれを経験せずに、2014年5月から参加したFBで出くわした。それ以前から所謂ネトウヨ的言質には気づいていたが、それは「顔の見える相手」ではなかったから、よく知る友人たちからそのような話が出ることに強い違和感を覚えたものだった。

 著者は、それに関して「3・11を境に、日本人が右と左に分断された」(P64~)と、続く項で述べているが、分断という点で僕が驚き、強い違和感を覚えたのは、2004年のイラク日本人人質事件で拉致された日本人に対して、従来、他者に向けて使われる言葉ではなかった「自己責任」なる言葉が持ち出され、少なからずの人々が支持するばかりか積極的に発するようになったときだった記憶がある。自国民の負った厄災に対して、国に迷惑をかけているなどという立ち位置から積極的に発言する者が続々と現れたことに唖然とした覚えがある。物凄い勢いで顕在化したのが、3・11後に現れた安倍政権下であったことに異論はないし、著者が僕の中で固まってきたネット右翼像(P71)として以下の四つの基準を満たすような人々だとしている①盲目的な安倍晋三応援団 ②思想の柔軟性を失った人たち ③ファクトチェックを失った人たち ④言論のアウトプットが壊れた人たち(P72)というのは、その気持ちはよく分かるものの、基準としては些か情緒的に過ぎる気がした。そして、「安倍政権の言うことだから正しい」的発言は一切しなかった父(P75)だから、ネトウヨとは違うのでは、というようなところから始めた次章「検証」以下は、挙げられた項目と考察をそれぞれ興味深く読みながらも、肝心なところは、ネトウヨに該当するか否かということではない気がして、読み始める前に楽しみにしたものとは異なっているように感じた。

 1973年生まれの著者は、僕より十五歳下だから、2019年に七十七歳で亡くなった彼の父親と十六歳離れている僕は、ちょうど中間世代に当たる。そういう意味では、両方の世代に対して等間隔にいるから、その点でも興味深く読んだ本ではあった。とりわけ著者が叔父から得た証言の数々が興味深かった。

 するとネトウヨをとりあえず定義してみると既成の新聞やTVといったメディアをほとんど読まず視聴せずにもっぱらネット情報を元に保守的な思考や発言をする人達という事になるのでしょうね。韓国・中国、朝日新聞を嫌いというあたりも共通だと思います。今の20~30代はTVを持っていない者も多いですし、ここ15年くらいのネット情報の発達で既成メディアの「切り取り報道」「偏向報道」が検証されるようになり、しいて言えば「リベラル不信」の世代が増えたのだと思います。との意見が寄せられた。

 そもそもネトウヨとは何ぞや、ということにおいては、確かにもっぱらネット情報を元にというあたりが肝要なのかもしれない。リベラル不信へと駆り立てる煽り記事が凄いらしい。僕は、垣間見る彼らの言葉遣いが無性に不快で、そんな言葉に乗せられていく人々の気が知れないのだが、あのスタイルが訳知りでかっこいいと目されるような感性が、どのようにして育つのか、それが不思議で、本書に関心を持ったものの、そういう部分には手が届いていなくて残念だった。

 加えてあと海外のニュースが大量に読み視聴出来るようになった為日本の既成メディアがいかに「切り取り」「隠蔽」してきたかが検証されるようになり、嫌韓も増えてきたのだと思います。(そして)「既成メディア」がこぞってpushした民主党政権の悪夢が、更に「リベラル不信」を煽ったのだと思います。との意見が添えられた。

 海外ニュースに根差すとの触れ込みネタによる「メディア不信」へと駆り立てる煽り記事は、世に言われるところの左右どちらの側からも激しく行われている感があるように思う。統一教会や勝共連合絡み、安倍政権下での警察検察介入などに関して、記者会見が外国人記者クラブ(日本外国特派員協会)で行われるようになったことには間違いなく、そのような経過が影響を及ぼしている気がしている。ただネットに溢れる「海外報道によると」というのが、きちんとしたものとは限らない玉石混交のなかで行われ、煽られている状況に乗せられている人々が余りにも多すぎるような気がしてならない。ひと頃ほどには拡散記事が僕の眼に触れる形で届くことが減って来たようには感じているが、それこそ安倍政権下の時代には激しいものがあったような気がする。

 少々気になったのは「民主党政権の悪夢」というフレーズで、これは「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉首相とおなじく、安倍元首相が再び返り咲いたときに使った煽りフレーズだ。小泉政権誕生当時は、まだ「既成メディア」という用語が使われるほどにネットメディアの威勢がよくはなかったが、言うところの「既成メディア」が小泉候補をpushして下馬評を覆す結果を導いたように記憶している。その効果の絶大さに注目したのか、その後「(マス)コミュニケーション戦略」いわゆるコミ戦が自民党の選挙戦略になり、2005年総選挙の大勝利を招いたことへの反省を報道現場にいた鈴木哲夫が2007年に政党が操る選挙報道<集英社新書>において、詳細に語っている。

 2009年の民主党政権誕生時における政権交代pushというのは、2005年総選挙時のメディア側の反省と言うより反動だと僕は思っており、その後また「民主党政権の悪夢」とのアジテーションに煽られて、かつて内閣官房副長官時代('00-'02)にメディアがこぞって「プリンス」と持て囃した安倍晋三を復権させたことの罪深さを感じているというのが、僕の受け取っているこの四半世紀に対する時事認識だ。

 「悪夢の民主党政権」に対しては、民主党政権はそこまでひどかったのか? 安倍政権と比べてみると…というような分析評価もされているが、ネットリテラシーというのは、つくづく大切だと思う。

 また、この本は未読なんですが、「3・11を境に分断」というのは私も少々違うんじゃないかと感じます。1998頃の従軍慰安婦問題あたりから、今のネトウヨ的なものが既に湧いてましたし。産経新聞と「新しい歴史教科書をつくる会」と小林よしのりの影響は大きかったですね。90年代後半に芽吹き、第二次安倍政権で一気に増殖し、その毒素が蔓延した感があります。との意見も寄せられた。

 当時の状況に関しては、慰安婦問題に限らず、七年前に読んだネットと愛国~在特会の「闇」を追いかけて』の読書感想最初にそういう驚きを味わったのは、もう二十年くらい前のことで、所謂“拉致問題”について、それまで政府が家族からの陳情を無視し続けていたなかで、当時の官房副長官だった現首相が露骨に政治的利用を始めた頃だった気がする。当時まだ若い二十代の真面目そうな青年だった職場の後輩が、思いがけない過激な意見を事も無げに述べたことに仰天したものだ。とも綴ってあるのだが、ちょうど既に湧いてましたというように、まだ分断とまではいかない兆し的な形だったように思う。

 新しい歴史教科書をつくる会などに関しては、'06年の男たちの大和/YAMATO』の映画日誌には日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白の日誌で言及した“自由主義史観”なるものが、いつのまにやら大手を振ってまかり通り始め、愛国称揚や国家主義がはびこりだすとともに、企業経営者の愛読誌だとされる「プレジデント」などに登場する企業人の愛読書が専ら歴史小説に偏向していて、戦国武将への憧憬がさも彼らのメンバーシップの必須要件でもあるかのような日本の風潮を強く意識してのことだという気がしてならない。と既に記しているように、3・11以前からのことなのだが、安倍政権下で物凄い勢いで顕在化したのは間違いないように感じている。新型コロナウィルス並みの猛威を振るった感があるのだが、新型コロナが、その脅威はなくならぬままでも、日本社会がどうにかこうにか持ち堪えているように、その毒素が蔓延しつつも日本社会が死に至らないことを願うばかりだ。

 右傾化することと、その本人に右寄りの思想があるというのは、必ずしもイコールではないんだなあーと気付かされる本でした。との声も寄せられたように、新左翼側で言えば、青春残酷物語の伊藤みたいなもので、デモに参加して練り歩いているからと言って思想があるわけでもなく、女の子を食い物にするのが目的だったりしていたし、他にも、流されや便乗など、右左関係なくいろいろあるわけだ。むしろ思想と言えるほどに体系的な捉え方の出来ている人のほうが少ないとしたものだろう。だが、思想が世の中を動かすわけではない点が肝要だと思う。そういう意味では、思想に拠らず分断に加担している勢力こそが思想よりもタチが悪く、危険な気がする。


by ヤマ

'23.11.11. 講談社現代新書



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