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| 『伊豆の踊子』に併録されていた三編を読んで | |||||
| 川端康成 著<新潮文庫> | |||||
| 『温泉宿』 鰐淵晴子・吉永小百合・内藤洋子・山口百恵による四つの『伊豆の踊子』を一挙に観るという好機を得て、やにわに『温泉宿』が読みたくなったところに主宰者である高校時分の映画部長が貸してくれた新潮文庫に収められていたものだ。 冒頭「彼女等は獣のように、白い裸で這い廻っていた。」(新潮文庫 P48)で始まるばかりか、のっけから「いきなり溝に跨ってしゃがみ、流れに音を流しながら」(P48)との放尿場面に出くわして吃驚しつつも、流石は川端康成だと納得した。A夏逝き、B秋深き、C冬来たり、からなる僅か52頁の小品で、『伊豆の踊子』を再読した旺文社文庫の文字サイズだと40頁くらいにしかならない気がする。 映画化作品で印象深かったお咲や「この村で体をこわした彼女は、この村で死ぬことを考えていた。可愛がってやった子供たちの群が、柩のうしろに長々と並んで野辺送りをする――その幻を、彼女は寝込む度に描くのだった」(P62)と綴られたお清も登場するが、中心になっていたのは、お芳から「お前また悪い癖だね、食器を洗う川だよ」(P49)と言われていたお滝や「風の便りには、男にあちらこちら引っぱり廻された挙句売られたとか。まことに風の便りである」(P95)というお雪のほうだったように思う。 気になっていたお清の歳については明記されていなかったが、「十六七の頃から、こんな山深くへ流れて来て、直ぐに体をこわしたお清は、この村を死に場所と思い込むようになった。」(P100)とあったから、少なくとも十六歳で死んだわけではなかった。一方、お雪については「男の客の甘い言葉からも、十六のお雪は、ちゃんとこの紫色のみみず膨れを看て取るのだ」(P71)と明記されていた。 それにしても、踊子薫の母親の名は、確か原作にはなかったと思うが、そのお芳の名が本作に現れるとは、意外だった。 『抒情歌』 二頁目に「もう四年前のある夜、風呂のなかで突然はげしい香(におい)におそわれた私は、その香水の名は知らぬながらも、真裸でこのような強い香をかぐのは、たいへん恥ずかしいことだと思ううちに、目がくらんで気が遠くなったのでありました。それはちょうど、あなたが私を振り棄て、私に黙って結婚なされ、新婚旅行のはじめての夜のホテルの白い寝床に、花嫁の香水をお撒きになったのと、同じ時なのでありました。」(P107)と綴られた、なかなかに怖い話だった。 親の許しなしに同棲(P119)し、「あなたの傍に眠っていました時、あなたの夢をみたことはありませんでした。あなたとお別れいたしましてからは反って毎夜のように、あなたに抱かれる夢をみたのでしたけれど、眠りながら私は泣いていたのでありました。そうして朝の目覚めが悲しいものになったのでありました。夜の寝入りが涙のこぼれるばかりうれしいものでありましたあの頃にひきかえてであります」(P126)と述べ、「私は幾千年もの間に幾千万の、また幾億の人間が夢みたり願ったりいたしましたことばかりを言っているのでありまして、私はちょうど人間の涙の一粒のような象徴抒情詩として、この世に生まれた女かと思われます」(P126)と自認する竜枝が、霊感や直感とともに得た死生観、世界観を語りながら、「あなたと花嫁との新床の香水の香を、お二人のホテルとは遠く離れた風呂場で嗅いでからというもの、私の魂は一つの扉をとざしてしまいました」(P110)というなかで、「私をお棄てなされたあなたへの恨みと、あなたを奪いました綾子への妬みとに、日毎夜毎責めさいなまれました私は、哀れな女人でいるよりも、いっそアネモネの花のような草花になってしまった方がどんなにしあわせかと、幾度思ったことでありましたでしょう」(P125)と、一人称語りでひたすら独白を連ねる、ある種、オカルティックな怪奇譚だった。 最後は「霊の国からあなたの愛のあかしを聞きましたり、冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、遥かに美しいと思います。 そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに」(P140~P141)で締め括られる短編を川端康成は何歳のときに書いたのか、確かめたくて巻末に収められた年譜を辿ると、三十三歳の時分だった。どうやら松林秀子との入籍を果たした翌年だったようだ。四年前の川端に何か事件があったのかもしれないと思った。 また、旧知の演劇人が『抒情歌』についての投稿を観て、「あれ近くリーディング上演しようと考えているところです」とメッセージをくれたので、「独り語りでやるの? かなり難しいと思うけど。僕、の部分あるし。」と返したところ、「基本的に龍枝の語りですが、それ以外は他の俳優を立てるつもりでいます」とのこと。母の台詞もあったけど、綾子は台詞がなかったような気がする。どのような脚色台本を書くのか楽しみにしている。 『禽獣』 前年作の『抒情歌』に「私は禽獣草木のうちにあなたを見つけ、私を見つけ、まただんだんと天地万物をおおらかに愛する心をとりもどしたのでありました。」(P127)と記していた禽獣をタイトルにした作品だ。『抒情歌』の怖さを通り越し、なんとも酷薄な印象の残る味の悪さに凄みのある作品だった。 四十近い独身者(P147)の「彼は、十年も前の千花子を思い出したのであった。その頃、彼女は彼に自分を売る時に、ちょうどこの犬のような顔をしたものだ。「こんな商売をしてると、だんだん感じなくなるって、ほんとう?」「そういうこともないじゃないが、また君が好きだと思う人に会えばね。それに、二人や三人のきまった人なら、商売とは言えないさ」「私あなたはずいぶん好きなの」「それでももうだめか」「そんなことないわ」「そうなのかね」「お嫁入する時、分るわね」「分るね」「どんな風にしてればいいの」「君はどうだったんだ」「あなたの奥さんは、どんな風だったの」「さあ」「ねえ教えといてよ」「女房なんかないよ」と彼は不思議そうに、彼女の生真面目な顔を見つめたものだった。「あれと似ているので、気が咎めたのだ」と、彼は犬を抱き上げて、産箱に移してやった。 直ぐに袋児を産んだが、母犬は扱いを知らぬらしい。彼は鋏で袋を裂いて、臍の緒を切った。次の袋は大きく、青く濁った水のなかに、二つの胎児が死の色に見えた。彼は手早く新聞紙に包んでしまった。続いて三頭産れた。みな袋児であった。そして七番目の、これが最後の子供は、袋のなかでうごめきはしたが、しなびていた。彼はちょっと眺めてから、袋のままさっさと新聞紙にくるむと、「どこかへ捨てといてくれ。西洋では、産れた子供をまびく、出来の悪い子供は殺してしまう。その方が、いい犬を作ることになるんだが、人情家の日本人には、それが出来ない。――親犬には、生卵でも飲ましといてくれ」」(P157~P159)と続くのだが、「彼女の肉体の野蛮な退廃に惹かれ…なぜあの頃結婚しておかなかったのかとさえ思った」(P160)千花子を思い出したという“この犬”を「この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は分娩というものの実感が分らぬげに見えた。「自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困ったことのようだ。どうしたらいいのだろう」と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しかし大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。」(P157)と綴っていた。凄まじい感性だと恐れ入った。 そのうえで、「…千花子は二度と出産をしなかった。…このボストン・テリアのように、千花子は子供に無心ではいられなかったのである。」(P161)と述べていた。禽獣の禽のほうについては、只管その死を描いていたような気がする。 この四編が併録されている「伊豆の踊子」がただの純愛ものであろうはずがないと改めて思った。通奏低音は、生き辛さだろうか。 | |||||
| by ヤマ '25.11.18. 『温泉宿』<新潮文庫> '25.11.28. 『抒情歌』<新潮文庫> '25.12. 4. 『禽獣』<新潮文庫> | |||||
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