『ヒポクラテスたち』['80]
『遠雷』['81]
監督 大森一樹
監督 根岸吉太郎

 合評会の課題作として示された二作品のカップリングは、僕が四十二年前に東宝で観たときの二本立てと同じという奇遇だった。

 先に観た『ヒポクラテスたち』の序盤に出て来るコンドーム つけてやらねば メンドー生むとの呟きに言うメンドーが破格の形で現れることとなる、俺は最低だ… 最低って何のこと?と記された『勝手にしやがれ』のポスターを印象づけられたことが効いてくる物語だ。劇中で青春分裂病と言っていたのは誰だったか、なかなか的を射ていたように思う。医学生ならずとも迷いと奢り多き若き日々としたものだが、命と向き合うことを余儀なくされる医学生なれば尚更のことだと思う。

 荻野愛作(古尾谷雅人)が終盤で己が白衣を見詰めながら零していたまぶしいなぁとの呟きが痛切だった。彼がペイントインブラックと言いながら白衣を黒衣に変えていった場面から後の展開は、いささか重苦しかったが、本作を観た三か月足らずの後に長男が誕生した僕には、とても響いてくるものがあった。三人目の子が生まれたという加藤(柄本明)には秋の国家試験では是非とも合格してほしいものだ。

 荻野から外見は恋でも中身は薄いか…と言われていた木村みどり(伊藤蘭)の顛末には釈然としないものが残った覚えがあるが、今回再見しても同じだった。気になるのは、みどりよりも偽産科医による堕胎手術で傷んだ順子(真喜志きさ子)のその後のほうだった。

 大学生の寮生活ぶりが同時代を過ごした僕には懐かしく、いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』で揶揄されていた“けたみ病院”に、当時の日本医師会長が武見敬三現厚労相の父親だったことを思い出した。いろいろなものがてんこ盛りにされたサービス精神にも志にも満ちた秀作だと改めて思った。そう言えば、卒業の集合写真の撮影に参加してなかった加藤の追加された丸い顔写真の隣にあったのは、大森一樹のものだったような気がする。手塚治虫や北山修が顔見せに留まらず、お任せっぽい台詞付きで登場していたりと、遊び心もたくさん入った映画だった。

 
 翌日観た『遠雷』は、四十二年前に『ヒポクラテスたち』との二本立てを観て三月もしないうちに今度は、『泥の河』『襲られた女』との三本立てで観て以来の三回目の観賞となった。ひと月余り前に濡れた週末['79]を観たばかりの根岸監督作品だ。

 もんたよしのりの歌う♪ダンシングオールナイト♪の流れるピンサロが序盤に現れ、洗練の欠片もないその営業スタイルに時の流れを感じる一方で、昼は喫茶、夜はスナックを営業している店のカレーが350円で、今だに千円まではいかないことや、市議会議員選挙の運動スタイルの変わり映えのなさに情けない思いが湧いてくる。

 ミツオ(永島敏行)やコージ(ジョニー大倉)を翻弄するカエデを演じた横山リエや、ミツオとの見合いの日にモーテルに行ったことを婚約後に自慢していたと思しき、開けっ広げで快活なアヤコを演じていた石田えりの脱ぎっぷりの良さは、今の時代の映画にはないもので、さすがATG作品だと改めて思った。

 トマト農家だからということではない土臭さを超えた泥臭さにまみれた青春を描いて、人の生というものは行き掛りと巡り合わせであることをしみじみと感じさせてくれる秀作だと再認識した。初対面の日のモーテルでけたみ病院先に言っておくけどさぁ、あんたは五人目よ」と言っていたアヤコと、人妻との情事も重ねていたミツオが、浴槽でビニールハウスで訪ねてきた家でと、肌を馴染ませていくにつれ次第に番いになって行くさまに実感が籠っていて感心する。夜のハウスで婚約者の豊かな乳房を撫で廻しながらこうしてるだけでいいっさぁ、最高だなんべやぁと洩らすミツオに笑みが漏れた。

 四十二年前に観たとき僕は二十四歳で、二回目を観たのはまさに長男が生まれた翌日だったから、夜明けに桜田淳子の♪わたしの青い鳥♪をデュエットする結婚式を二人が挙げる前に出来ていた子供が生まれるのは、ミツオが二十四歳になる勘定だから、僕と同じだ。二十三歳時分の成り行き任せの精力旺盛はミツオと変わらぬ性春でもあったし、カエデを持て余し、殺めてしまったコージに対して、ミツオが一歩違えば、自分がコージだったことを思わずにいられないような若き危うさ脆さは、決して他人事ではなかったような気がする。

 ミツオの母(七尾伶子)と祖母(原泉)を見て自信がなくなったと言い、女は私ひとりじゃないでしょうよと突き放し去って行きつつ戻って来るアヤコを演じていた石田えりが実に好い。やはり彼女の代表作は本作だと思う。青い制帽に黄色い制服を着たガソリンスタンドでの可愛らしさも、トマト色のシャツを着て一袋百円の行商をしながら愉し気にミツオと声を張り上げる姿も、実に明るく魅力的で、着衣でも裸体でも魅了するマハの如き輝きだと思った。

 順子に堕胎を求めた『ヒポクラテスたち』の愛作、子連れの結婚式でもするかと言った『遠雷』のミツオ、殺人犯になってしまったコージ、三人の性春の選択には大きな違いがありながら、三人そのものには大した違いはなく地続きであることが哀しく伝わって来たように思う。四十二年前に観た時以上に、ナイスカップリングの二本だと思った。

 一度も会ったことのないまま三十年近い交友になる少し年上の永島敏行ファンの映友女性がはずみで女を殺してしまう。不自然だな~。二十代で子供がいる人妻を殺害。何だろう。と寄せてくれた。僕は、コージがカエデを殺したのは、弾みというよりも追い詰められた挙句の苦し紛れだったように感じている。よほど執拗に絡まれたのだろう。もう逃れられないと思い詰めたのではなかろうか。逃避行を唆されて応じた時点で、既に理性は失われているのだから、そうなってもおかしくない気がする。魔が差したということはあっても、弾みではない気がしてならなかった。映友女性はまた、しきりと石田えりのナイスバディを讃えていたが、その体を観てぺろり!と言っていたミツオの台詞は、原作にもあったものなのだろうか、などと思った。思えば、三者に通じる三態の男好きながら、カエデのふしだら、チイ(藤田弓子)のだらしなさとの対照が、アヤコの健康さをよく際立たせていたことに思い当たった。


 合評会では、僕以外のメンバー全員が当時の京都で若き日々を過ごしているなか、栃木の『遠雷』がどこまで迫ることができるのかと興味津々だったが、映画同様に月一度の寮会議が開かれていたとの寮生活で京都での大学時代を過ごした主宰者が思い掛けなく『遠雷』のほうに回ったため、二対二の五分となった。自身が医学生であった'52年生まれの大森一樹の監督・脚本作と、'47年生まれの立松和平による原作を同年生まれの荒井晴彦が脚本化して'50年生まれの根岸吉太郎が撮った映画だから、'50年代生まれの我々には格別の親近感が湧いたせいか、合評会なのに対象化して評し合う以上に、それぞれの若かりし時分について語ることに花が咲き、それぞれの進路や結婚にまつわる思い出を伺い語ることが出来て、妙に新鮮だった。かつての寮会議をどーでもいいことを小難しげに、議論していたのも懐かしい✨🤣と洩らしていたように、カップリングテーマを“モラトリアムATG”としたことに相応しい若気を束の間、取り戻したような合評会だった。「青春分裂病」と言っていたのは、寮の主のような8~9回生の本田(斎藤洋介)だったようだ。

 主題的には、僕自身はモラトリアムというよりも、上述した“若き危うさ脆さのなかでの性春の選択”といった趣が強いのだが、気恥ずかしさと苦みも伴って懐古される青春期がある種の猶予を与えられていた時期だったのは間違いない。そのなかにあって今もモラトリアムみたいなもんやと洩らしたメンバーが、全員が同意したことに驚いたと言っていたが、既に全員が還暦越えとあって最早決して「与えられてはいない」わけだが、自身の感覚としては、いつまで経っても覚束なさを抱えているということだ。

 みどりの自殺については、府立医大卒業の大森監督が実際に経験したことだったのではないかという意見もあった。もしそうだったら、物事がよく見える頭のいい作り手である彼にも不可解の残る忘れがたい事件だったのだろう。よもや順子の見舞われた出来事があったのではなかろうが、『遠雷』のコージのようなことが起きたりもする危うさ脆さの只中にある性春期なら、あり得ないことではない気がした。図らずも全く卑近な合評会メンバーですら、思わぬエピソードを各自ともが抱えていた時期なのだから。
by ヤマ

'24. 7. 1. DVD観賞
'24. 7. 2. DVD観賞



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