『ミッシング』
監督・脚本 吉田恵輔

 二年前に観た吉田作品空白は実にパワフルな映画だったが、本作もまた強烈で、観終えた後もずっと胸のむかむかが続いて、些か気持ちが悪かった。娘を誘拐されたと思しき沙織里(石原さとみ)が言っていたように、明らかに狂っている現代社会に生きていることの気持ち悪さを呼び起こされたのかもしれない。

 タイトルに違和感を覚えたことから触発の得られた『空白』とは逆に、なかなか意味深長な「ミッシング」に感心した。『行方不明』では喪失感ないしは欠落感のニュアンスが乏しくなるし、現代社会を構成している人々が抱えている「見失った」ものまでは、とても表象できないように思う。『空白』の古田新太と松坂桃李も凄かったが、本作の石原さとみにも恐れ入った。

 近年のシン・ゴジラにしてもそして、バトンは渡されたにしても、生活感とは離れたキャラクターを演じて持ち味を発揮する女優だと思っていたから、娘の失踪によって生活を奪われ剝がされた若き母と妻、姉を演じて圧巻の生々しさを発揮している姿に驚くとともに、大いに感心した。

 そして、心ない悪戯と思しき情報提供によって遠出をさせられて泊まったホテルの屋外喫煙コーナーで、煙草を吸いながら目に留めた家族連れに涙を滲ませ、自分たちとは異なり失踪した娘を無事に取り戻した母親の謝辞と協力申し出に対して健気に対応している妻の姿に号泣していた夫の豊を演じていた青木崇高が目を惹いた。沙織里の弟の圭吾(森優作)は無論のこと、地元テレビ局の砂田記者(中村倫也)も含めて、不寛容では済まない“狂った社会”のなかで傷んでいる人々の姿が痛々しかった。

 とりわけ、偽の目撃情報以上に罪深い、警察を騙った保護情報を受けて駆け付けた沙織里が落胆と脱力のあまり失禁してしまう姿を偶々取材中で同行した砂田が携帯電話での隠し撮りを止めてしまっていたことに対して、同僚カメラマン(細川岳)が咎めていたのが印象深い。とても放送で流せる画像ではないだろうし、実際の取材現場では起こりそうにもないと思うが、メディア取材に対してそのようなイメージを持たせる状況があるのは確かだという気がする。ある意味“狂った社会”の核心的部分とも言える「人の痛みを食い物にして利を得る」ことの象徴的存在がいまのマスメディアなのかもしれない。

 いつからこういうことになったのだろう。日誌に犯罪者どころか被害者に他ならない者までも、メディアやネットでの煽り立てがあると、それに押し流されるままになる現実というものが現にあると綴った誰も守ってくれないを観たのは、十五年前になる。思い返せば、公人とは言えない一般人に対してもなりふり構わぬメディアスクラム攻勢を掛けるようになった時分からのような気がするから、もう三十年くらい前のことで、今では自主規制も敷いているようだが、失った信用を回復させるには至っていないように思える。
by ヤマ

'24. 5.28. TOHOシネマズ5



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