『私をスキーに連れてって』['87]
『彼女が水着にきがえたら』['89]
『波の数だけ抱きしめて』['91]
監督 馬場康夫

 いわゆる「ホイチョイ三部作」を続けて観る機会を得た。遠い昔にTV視聴した覚えのある第一作『私をスキーに連れてって』にも名の出て来る、大人気で猫も杓子ものロシニョールが嫌で、エランのスキー板を僕が購入したのは、同作に七年先駆ける1980年のシーズン。社会人になりたてで学生時分よりは金回りがよくなり、間もなく束の間に終ってしまう独身貴族を謳歌し始めた年だったことが懐かしい。スキー板自体は、今も倉庫に眠っている。本作に登場する志賀高原スキー場も万座温泉スキー場も学生時分に行ったけれども、当然のことながら、プリンスホテルや洒落たロッジに宿を取れるような学生ではなかったし、まだ'70年代で、本作のようなバブリーな華やかさはゲレンデにもなかったように思う。ついでに触れると、本作に映る六本木の俳優座シネマテンにも'80年代には行ったことがある。

 それにしても、これほどに無茶なストーリーだったかと久しぶりに再見して驚いた。また、守れない約束を繰り返して優(原田知世)をすっぽかしていた矢野(三上博史)を始めとする、冴えない男たちに比して、女の子たちが颯爽としていてカッコいいことに、なかなか時代を先取りしていたじゃないかと感心。テルマ&ルイーズ['91]に四年も先駆けるヒロコ(高橋ひとみ)&真理子(原田貴和子)に乾杯。

 朴念仁の矢野への誤解の解けた優が言う、これ以上に何の変哲もないはずのあけましておめでとう。今年もよろしくお願いしますとの挨拶言葉が、特別な意味を持って響く場面というのは、後にも先にも観たことがないように思う。原田知世のお辞儀がまた好い。とても冬の雪山の午後五時とは思えない滑り出しから始まるスキー場面は、あまりのことに大して好きではないのだが、ユーミンの歌は、やはり若き日の僕らの楽曲だと改めて思わせてくれる作品で、若さの馬鹿さ加減が何とも懐かしく思える映画だった。


 第二作『彼女が水着にきがえたら』は初見作品だった。ゲレンデが海中に替わり、ユーミンがサザンになり、三上博史が織田裕二【吉岡文男】になっていた同作は、スキーからマリンスポーツになった分、バブリー度が三倍増しで、引き連れて呆れ度もアップしていた。

 クルーザーやヨット、水上スクーター水上オートバイどころかホーバークラフトまで使って遊んでいるのだから、スキーやアマチュア無線だった前作とは御大尽度が比較にならない。夜の社交の場においてバニーガール姿が現われる点は、前作にも共通していて、いかにも作り手の趣味っぽかったが、退廃享楽度は遥かに増していたような気がする。観ていて呆れ度が増したのは、当時を懐かしんだりできる親近感が、僕にはまるで湧かなかったからでもあるような気がした。大学の後輩にあたる八歳下の映友女性は、あの当時、スキューバダイビングを楽しんだりしていたそうだから、むしろ前作よりもフィットしたりするのかもしれない。

 だが、前作の真理子&ヒロコから真理子(原田知世)&恭世(伊藤かずえ)に替わった本作の女の子たちに、前作のような颯爽としたカッコよさが露とも感じられなかったのが本作最大の弱みだという気がした。出鱈目さ以上に伸びやかさの感じられた馬鹿な若者たちに伸びやかさがなく、伸びやかさ以上に出鱈目さの目立つ中年親父も含めた馬鹿者たちの、夢追いとも思えぬ宝探しのバブリー度に些か頭を抱えてしまった。

 映友が本作について「007」「若大将」に加えて「独立愚連隊」テイストも入ってましたっけ。と言っていたのは、独立愚連隊西への軍旗探しの争奪戦のことだったのかと、当時“三十八年前の朝鮮戦争”だった墜落機に搭載していた宝探しの話がプロローグに登場して得心したけれども、中国人と思しき謎のボスに佐藤允を配してはいても、かの作の風刺性に富んだ破天荒な愉快さには到底及ばない代物だったような気がする。

 劇中に出てきた理屈に勝てるのは肉体という台詞が示していたような身体性への注目が高まった時代だったような記憶は、僕のなかにもある。誤った反知性主義が蔓延り始める前夜だ。かつては間違いなく“現実”よりも上位に置かれていた“理想”がほとんど空論と同一視され、“理想論”という言葉が侮蔑語に転落するようになり始めた時代ともバブル期は符合していると僕は感じている。この時分の竹内力がまだまだスマートな駆け出しの若者で、マッチョ度も自ずと穏やかで、共演していた安岡力也にはまるで及んでいなかったことが印象深い。


 田中真理ならぬ田中真理子が原田知世から中山美穂に替わった第三作『波の数だけ抱きしめて』は、第二作を観て些か頭を抱えてしまい、第三作がメッセンジャー['99]に向けて持ち直しているのか、更に転落しているのか、が俄然興味深くなった初見作品だったが、思ったより健闘している気がした。

 タイトル的にサーファーを思わせたことから、クルーザー&スキューバダイビングのような御大尽よりは、スキー遊びのほうに寄り戻していそうに思っていたのだが、波は波でも電波のほうで、これにはしてやられたと思った。持ち直しているか否かのポイントになるのは「出鱈目と伸びやかさ」のバランス加減だと思っていたので、その点からすれば、バイトに精出しながらミニFM局の可聴域を湘南海岸全域に広げようとする馬鹿者たちの奮闘を描いていて、なんだか高校時分に生徒会執行部の役員として二十余年ぶりの生徒会費の値上げに奮闘した日々のことを思い出させてくれるところがあって愉しめた。

 第二作に出演していた織田裕二が吉岡から小杉に名前を変え、本作において唯一バブル時代を感じさせる大手広告代理店の博放堂勤務のゴールドカード持ちである吉岡を別所哲也が演じていた。音楽は、再び松任谷由実に戻り、オープニング・エンディング含めて四曲流れたが、あまり耳馴染みのある楽曲ではなかったから、映画も前二作ほどにはヒットしていなかったのではないだろうか。

 何と言っても、朴念仁という以上に根性無しのぐじぐじ男だった小杉のキャラクターが、第一作の矢野、第二作の吉岡よりも情けなくて、いただけなかったのだが、ああいう情けなさは若き日の出鱈目さとセットになった在りがちなことではあるという気もしなくはない。田中真理子の結婚式の日に最早九年も前になった日の出来事について聞いてたのかなぁ、田中などと芹沢(阪田マサノブ)にぼやくような有様だから、大事な開局本番の日の前夜に真理子が吉岡と出掛けたことでのヤケ酒の伽を裕子(松下由樹)に求めて、ろくでもないことになるわけだが、現実感からすれば、裕子に伽を求めたりはせず、そこは芹沢だろうと思えて仕方がなかった。だが、そうすると、真理子の誤解の場面に繋がらなくなってしまうとは思う。

 真理子&裕子という点から観ると、裕子のキャラクターは、前作の恭世(伊藤かずえ)よりは遥かに好もしかったが、第一作のヒロコ(高橋ひとみ)には及ばないように思う。何より颯爽としたところに欠けていたような気がする。せっかくの中継器の搬送場面をもっと巧く使えばよかったのにと思ったりもした。

 ともあれ、若き日の恋における“逸したタイミングによって失われた縁”という実に普遍的な物語を描き出して、まずまずの作品だったように思う。J.D. SoutherによるYou're Only Lonely♪をバックにそれぞれの心と思いの擦れ違いを映し出していた場面がなかなか好かった。学生時分に生録研究会にも入っていた僕にはVUメーターの針の触れも殊更に懐かしい。心の声は、なかなか届けられないし、届かないものだ。

 それにしても、上智大四回生と思しき二十二歳の田中真理子がどうしてアメリカに転校しなくてはならないのか、訳が分からなかった。そして、ガングロ流行前の肌焼きブームの時代のアナクロ感が妙に滑稽だった。


 それはともかく、思い掛けなく「ホイチョイ三部作」を続けて観賞したことから、七年前にBSプレミアム録画で『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』['06]を観たときに作り手側に本気でバブル期を懐かしんでいる心情が窺えた気がする。下品だ。と記したメモが残っていることを思い出した。

 当時、ひと頃以上に僕の関心が四半世紀前のバブル期にあったせいで、かねて観逃していた同作を録画して観たのだったが、なんだ、下川路審議官(阿部 寛)が芹沢元局長(伊武雅刀)に取って代わり、ファンド成金以上の勝ち馬として首相にまでなっちゃう話かよと白けたものだった。同じフジテレビ系列で製作した映画でも、バブル期のさなかの就職戦線異状なし['91]のほうが、格段に面白かったように思う。それはそれとして、愛と直子のW飯島の若々しい初々しさを狙って出しているカメオ出演が目を惹いた。その飯島直子は、『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』に七年先立つ同じ馬場監督によるホイチョイ作品『メッセンジャー』が僕にとってのベストムービーで、我が“女優銘撰”にも挙げている。
by ヤマ

'24. 1. 5~7. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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