『王になろうとした男』(The Man Who Would Be King)['75]
『長い灰色の線』(The Long Gray Line)['54]
監督 ジョン・ヒューストン
監督 ジョン・フォード

 先に観た『王になろうとした男』は、こういう冒険譚、物語世界が、いわゆる“男の浪漫”だった時代があったのだな、という映画だったような気がする。いかにもアングロサクソン的マッチョを感じる“富と覇権への欲望”が手放しで語られ、なんともアナクロニズムが目立つように感じた。西部劇だと余り気にならないことが妙に引っ掛かってきたのは、西洋と東洋に係る西高東低感が前面に出てきているからかもしれない。いまやこういう映画世界にエキゾチシズムを覚えなくなっていることも大きい気がする。

 すると古くからの映友が「公開当時、小野耕生氏がまさに同じ指摘をされてましたね」とのコメントを寄せてくれた。公開当時ということは、'70年代なのだが、あってもおかしくないとは思うものの、僕が当時観ていても、時代錯誤とまでは言えそうにない時点だし、まだちょっと無理だったかもしれないという気がした。ショーン・コネリーとマイケル・ケインによる映画なのに、素直に楽しめなかったのが残念だ。しかも原作者のキップリングはノーベル文学賞受賞者だと聞くと、尚更に時代の違いを思わずにいられない。

 また別の映友からは「これ元々はクラーク・ゲーブルとハンフリー・ボガートで温めていた企画でそちらで観たかった気もしますね。ジョン・ヒューストンおなじみの「努力水泡」テーマのロマン。」とのコメントも貰った。努力が水泡に帰したという点では、ドレイボット(ショーン・コネリー)もカーネハン(マイケル・ケイン)も、果敢ではあるものの、努力と言うほどの努力とも思えないツキ任せだったという気もするが、水泡には帰したのは間違いない。

 ゲイブルとボガートなら、どちらの配役になるのだろう。やはりコネリー⇒ボガート、ケイン⇒ゲイブルだろうか。ゲイブルにケインのあの味は出そうにないが、ボガートには更に似合いそうにないなどと連想し、愉しんだ。


 五日後に観た『長い灰色の線』は、'50年代における陸軍士官学校讃歌のような作品だから、致し方ないところもあるのだろうが、二十年後の映画『王になろうとした男』に感じたものと近いアナクロニズムを覚えた。今からちょうど七十年前の映画で、僕が生まれる前の作品だ。

 士官学校に半世紀も勤めているマーティ・マー軍曹(タイロン・パワー)なれば、卒業生に名だたる人々がいて当然だろうし、軍事教練ではなく体育助手から教官になった人物となれば、親近感も湧きやすかったろう。1900年代の初めにアメリカ陸軍士官学校ウェスト・ポイントの食堂給仕から兵士としての入隊に転じながら、教員として出征をしないままに、戦場に教え子を送り出してきた男の回想録だった。マーティの妻メアリー(モーリン・オハラ)の自己決定力に富んだ気丈な女性像が印象深い。

 笑いを取りに来ている場面が自分には尽く外れて、妙な映画のように感じられ、二時間半近い長尺に少々倦んだりしたけれども、画面は見事だった気がする。'50年代から遡る半世紀ということは、当然ながら第一次も第二次も世界大戦を経ているわけで、それを受けての戦後がもう少し語られていてもいいように感じたが、ノスタルジックな趣にかなり寄った作品のような印象だった。
by ヤマ

'24. 6.20. BSプレミアムシアター録画
'24. 6.25. BSプレミアムシアター録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>