『ソイレント・グリーン』(Soylent Green)['73]
監督 リチャード・フライシャー

 知らずにいた映画だったが、年季の入った映友たちがこぞって映画の出来はたいしたことないが、面白いと異口同音に告げていたことから興味が湧いた作品だ。製作時には半世紀後を想定した未来を既に過去としている現時点からは、いろいろ御粗末に映る未来像ではあっても、映画作品としてはいろいろ工夫と仕掛けが施されていて、上等のエンタメ作品だと思った。公開当時に観ていたら、高校生の僕はどんなふうに受け留めたのだろう。かなりインパクトがあったであろうことは想像に難くない。

 冒頭に字幕で現れたニューヨークの人口4千万人が実際はどうなのか確かめてみたら、830余万人だったから、製作当時の700万人弱からは二割弱の増だ。横紙破りの我が道刑事ソーンを演じているのがチャールトン・ヘストンだったから、ニューヨークの未来ものとなれば、自ずと本作に五年先立つ猿の惑星を想起せずにいられないわけだが、衝撃の“横転した自由の女神像”ではなく、衝撃の“囲われ女神たち”の登場に呆気にとられた。ウーマンリブ運動の華やかなりし頃に、なかなか挑発的で大いに感心した。

 六倍近い人口増が実際のところ、二割弱の増だったことの割り増し感からすれば、本作に描かれた格差社会の進展も相応のところを行っていて、それがトランプ現象なる始末の悪いものを生み出していることに思いが及ぶ。ソーン刑事が平然と尋問はベッドでとシャール(リー・テイラー=ヤング)に言い渡し、それをごく当たり前のことのようにして彼女が応じる「“富裕紳士”の家具たる美女」というのも、MeToo運動の隆盛と並行して確かに現存しているのは、トランプ裁判を想起するまでもないことのようだから、“六倍には及ばぬ二割弱増の現在”としての納得感がある。これをも含めて格差というべきかはさておき、二極化という点では充分に言えることのような気がする。

 現代との照射で言えば、何よりもドラッグやらサプリの摂取が人が口にするものとして当たり前の時代になっていて、イエローであれ、グリーンであれ、ソイレント時代は紛うことなく訪れている気がする。僕自身は、素材の素性の知れない代物に対して、薬だとか健康食品だとかの名前を冠せられるだけで服用することへの嫌悪感があって従前から殆ど口にしない生活様式を貫いているが、同世代で集まると、今や日々の服用薬を所持していない者がまるでいなくなっていることに驚く。

 本作のキーワードは奴らは全てを独占したがるとの元大学教授たる古老ソル(エドワード・G・ロビンソン)の台詞だったように思う。独占のためには人を人とも思わぬ神をも恐れぬ所業に邁進する“強欲”というものを制御しなければ、苺ジャム一瓶が150ドルもして、只の護衛(チャック・コナーズ)には買えないはずの時代がやって来るということだ。

 ソイレント・グリーンならぬガーファ・グリーンの時代は既にやってきていて、食糧についても目前に迫りつつある感じがしてきている。本作が半世紀の時を経て今、リバイバル上映されているのも道理だと思った。ラストカットでのソーン刑事の叫びSoylent Green is people!は、字幕ではソイレント・グリーンは人肉だ!と訳されていたが、その意味でも、前段での「食用人間の飼育」ということからすれば、やはり「ソイレント・グリーンは人民だ!」と直訳するほうが適切な気がした。確かに原料が人間であることを目撃したともソーン刑事はハッチャー警部補(ブロック・ピーターズ)に言っていたけれども、全てを独占したがる奴らによる搾取を訴えた叫びで締めた作品だったと思うからだ。

 当時まだ、いわゆる「格差社会」という言葉は流通していなかった気がするので、その言葉では作り手の意識にはなくて、あのモノのように折り畳まれ押し込められた貧者の群れの描出において作り手にあったのは、ホロコーストなのだろう。だが、近未来においてはナチス⇒特権的富者、ユダヤ人⇒貧者というイメージを明確に提示しているように感じられた。そこには“人を人とも思わぬ神をも恐れぬ所業”という点で通底する社会観ないしは人間観が窺えたように思う。なかなかの作品だ。
by ヤマ

'24. 6.16. DVD観賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>