『第三の男』(The Third Man)['49]
監督 キャロル・リード

 映友が藤子不二雄の『まんが道』でこの映画に出会い惚れて語るシーンがありますと記し、過去に2回観ていると書いていた本作は、僕は、三十八年前に名画座で観て、十五年前に美術館ホールで観ている。当時のSNSには、こんなメモが残っていた。

 さすがに映画史に燦然とその名を残している作品だけに強い印象を与えてくれる映画だけれども、二十代の時分に観たときにも思ったことだが、お話としては何とも釈然としない物語に思えて仕方がない。巧みな撮影による画面作りの見事さに煙に巻かれている気もするが、原作者自ら脚本に携わっているのだから、元々こんな話なのだろう。

 それにしても、僕には、ホリー(ジョセフ・コットン)、ハリー(オーソン・ウェルズ)、アンナ(アリダ・ヴァリ)の取っていた行動と心境というものがさっぱり分からず、妙に居住まいの悪いところがあった。最初にハリーがアンナの住まいを訪ねてホリーに出くわすのはまだしも、ハリー逮捕のために国際警察の囮を務めるホリーのいるカフェに再度、姿を現わしたのは何故なのか、その前に、正規のパスポートを手に入れ、出国しかけていたアンナがホリーの姿を観止めて汽車を降り列車に荷物も残して、汽車をやり過ごすばかりか、そのままウィーンに留まったのは、どういうわけか。ラストでホリーがアメリカへの帰国に向かっていたにもかかわらず、アンナの姿を目に留めてやおら車を降りながら、通り過ぎる彼女に声も掛けないのは、どういうつもりなのか。

 まぁ、細々と挙げていくときりがないけれども、ホリーが門番殺害の嫌疑を掛けられる場面が少年の叫ぶ奇声と付回しによるものに思える運びや、そのときのホリーとアンナの逃げ方にしても、ホリーの講演会の場面にしても、何やら、わけの分からない展開ばかりだった気がする。

 そう言えば、誰もいない観覧車のところでのホリーとハリーの待ち合わせ場面も二人が顔を合わせると同時にぞろぞろと家族連れが現れてき始めるのが何だか奇妙だった。全てが画面の効果のために作られている映画だったような気がする。
とのこと。

 そして今、その映友から以前に貰った、吉行淳之介による「316のアフォリズム」からなる『男と女を巡る断章』<集英社文庫>を捲っていたら、No.89に本作が出て来た。89 歩くシーンが俳優にとっては大層むつかしい、とはよく言われる。「第三の男」のラストシーンで、アリダ・バリという女優が歩く姿は見事であった。並木道の遠くに小さく姿が現れ、大写しになるまでえんえんと歩く。ハイヒールの音を硬くひびかせて、その音と歩き方が彼女に話しかけようと待っている男に対する拒絶の意思表示となっている。 ――恐ろしい場所――よりP54

 十五年前の上映会場では、初めて観たと思しき方がえらく感激したようで、熱心にアンケートに綴ってくれていた。帰りには、直に喜びの言葉を率直に告げてもくれ、自分が主宰者でもなく作品選定したわけでもないのに、何だか嬉しい気分になったものだ。映画の楽しみは、筋立てばかりでは決してないってことの証だと思った。音楽のほうは、かつて観たときは、かなり好印象だったのが、再見時には少々うるさく耳についたような覚えもあるが、オープニングで映し出された音楽家達の眠るウィーンの墓地は、二十歳の頃に行ったことのある処なので、懐かしく嬉しく観た記憶がある。
by ヤマ

'09. 8.20. 美術館ホール



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