『福田村事件』
監督 森達也

 大正時代の関東大震災時の流言飛語によって朝鮮人虐殺事件が起きたということを僕が知ったのは、もう半世紀くらい前になる十代の時分の教科書だった覚えがある。今も手元に残っている当時の学習参考書「チャート式シリーズ改訂版 新日本史」【数研出版 昭和46年3月10日改訂版第1刷発行】には、…政府は戒厳令をだして、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすという流言をあおり、それによって軍隊・警察などによる朝鮮人虐殺事件・甘粕事件・亀戸事件をひき起こした。P386)と明記されていて、政府があおり軍隊・警察が起こした事件であることが教えられていたわけだが、今では教科書は無論のこと、参考書にこういった記載がされることはなくなっているに違いないことは、昨今の政府や都知事答弁の様相から、容易に推察できる。

 だが、僕がそのことを知った当時、記述にある「軍隊・警察など」の「など」に一般民衆が含まれているとも教えられたことに対して違和感が拭えず、組織命令が下される軍隊や警察と違って、一般民衆が好き好んで虐殺行為に加わるイメージが浮かびにくくて、組織でもないのに、どういう系統で殺害行為が指示されるのか不思議でならなかった覚えがある。悪口までならともかく事は虐殺だ。指揮命令もないままに、流言飛語ごときで、どうして人が自発的にそこまで愚劣になれるのかどうにも解せなかった記憶が鮮明に残っている。

 そして長ずるに及んで、世のなか流され型の人々が思いのほか多いことを知り、困ったものだと思いつつも、2チャンネルを経て、ツイッター時代が訪れるまでは、ただの流され型ではとうてい至ることのできない愚劣な言辞に、これほどに弄される人々が多いとは思えないでいた。だが、ネットでそういったものを目の当たりにすることで、かつて妙に腑に落ちなかった市井での朝鮮人虐殺が、矢庭に現実感を帯びてくるようになっていた。

 そういう国掛かりのあおりのなかで、震災荒廃地でもない近隣千葉で朝鮮人と疑われた日本人が、幼児や妊婦を含めて虐殺された事件があったことは、本作の映画化によって脚光を浴びるまで僕は知らずにいたが、上記の延長線において人はここまで愚劣になり得るのかと唖然としたものだった。それから言えば、本作は、その運びにおいて実に説得力があって大いに感心した。

 いささか長過ぎたきらいはあるものの、前半部分がなかなか重要で、家族であれ、居場所であれ、将来展望であれ、人々が大きな欠落感を抱え、その生き方が非常に刹那的になり、目前の事しか視野に入らなくなっている状況、というものが大きく作用していた時代であることが示されていた。その意味では、浮世離れした浮遊感に苛まれ体現もしていた、自身の名をチョンジャとも読んでいた澤田静子(田中麗奈)にしても、夫を出征に徴された空虚から渡し船稼業の船頭(東出昌大)に身も心も移していた島村咲江(コムアイ)にしても、在郷軍人会で威勢を張ることに駆られていた長谷川(水道橋博士)にしても、四年前の朝鮮半島での虐殺事件を目の当たりにして教育に従事できなくなり、教職を辞めて郷里で就農しようとしていた澤田智一(井浦新)にしても、将来展望のまるでない生き方を余儀なくされていた気がする。そういった心の荒みを引き起こしていたのが、徴兵による日清、日露、シベリア出兵と途切れることのない戦争継続と、恐慌などによる経済不況から来る生活不安、つまりは政治の貧困だったわけだ。

 唯一人、今後の日本、これからの村の生活を視野に入れていたのが、村長にもなっていた庄屋の倅(豊原功補)であったが、同級生の澤田を村の学校の教師に就かせることさえ叶わぬ非力さだった。長谷川と澤田と村長を同級生というフラットな関係に置いたうえでの相関模様を描く設定にしてあるところが巧みな設えだったように思う。互いの互いに向ける弁と眼差しの忌憚のなさに、当時の世相がフラットに投影されている気がした。

 それにしても、鮮人なら殺してもええんか!と叫んだ行商人団の頭領(永山瑛太)に直接手を出し脳天を割った最初の人物が、最も逸っていた自警団の井草茂次(松浦祐也)でも、最も煽っていた在郷軍人会の長谷川でもなく、朝鮮人に夫が殺されたと思い込んでいたトミ(MIOKO)だったことに、三十七年前に観たイージー・ライダー』['69]の映画日誌…抹殺に直接手を下すのは、体制ないし権力ではなくて、いつも平凡なる不自由人なのであると綴ったことを思い出した。彼女の一撃によって、火蓋が切って落とされたように、集団での虐殺行為が始まっていた。

 正義感の強い女性新聞記者の人物造形が現代的過ぎるとの意見も散見されるが、僕は、大正デモクラシーの時代なれば、平塚らいてう、市川房枝、伊藤野枝らが活動していた時代なのだから、あのくらいの女性記者はいたかもしれないと、そう強い違和感は覚えなかった。もちろん少数者であることは間違いないだろうけれど、当時、女性ながら敢えて新聞記者に就いているのであれば、ある意味、今の時代以上に非常に進歩的な意識を備えた人物だったはずだとも思う。

 また聞くところによれば、性的場面は不要だとの声もあるとのこと。だが、僕からすれば、あれは非常に重要なシーンで、咲江や静子たちのそれがあったからこそ生き方が非常に刹那的になり、目前の事しか視野に入らなくなっている状況が浮かび上がって来たような気がしている。かつての映画と違って露出度も耽り具合も薄味だったが、僕らがよく親しんだ昭和の時代の作品なら、欠落感を埋めるものとして、最早わずかにそこでしか生の実感を得られなくなっている姿を強烈に画面から印象づけられていた気がしてならない。

 旧知の後輩がやはり「鮮人なら殺してもええんか!」のシーンに尽きます。虐げられてきた思いが乗った魂の叫びだったと思います。やられる前にやらなければやられる!という疑心暗鬼に囚われた情弱者が堰を切ったように大殺戮をやってしまった。被害者になりたくない故に加害者になった。得体の知れない相手は怖い、だから虚勢を張って大きく見せ対抗し時には報復のリスクを無視して先制攻撃を仕掛ける。結果双方大ダメージを受ける。だからこそ分かり合う努力を惜しんではならない。デタントです。とも寄せてくれたが、まさに、そこだと思う。情報弱者では済まされないものがあると思うが、作り手としては、ベーシックなところでの教育の大切さを思うからこそ、村長に教育について語らせていたような気がする。しかし、ここ数十年来、教育のほうから捻じ曲げてきていて、すっかり管理教育に馴らされて、「そもそも」を自ら考える思考力を育めないままに成人してしまう人々が増え、国としての力もすっかり弱体化してきている気がしてならない。

 虐殺された薬売りの行商団が被差別部落民だったことが、事件のその後の扱いや生存者が声を上げられなかったことに強い影響を及ぼしている気がして、なんとも遣り切れない。

 ちなみにぜひ鑑賞日誌を読ませていただきたいなと思いましてとのメールを寄せてきて、本作の観賞を急かしてくれた友人に感想を伝えると半世紀も前の教科書・学習参考書に記載されていたことに驚きました。とのことだったが、当時、受験生の間で権威のあった、かの学習参考書には、補足として下段に1)朝鮮人虐殺事件 震災勃発当日の夕方から朝鮮人や社会主義者が暴動を起こしたり、放火したり、井戸に毒を投げ込んでいるというデマが飛び出した。政府はこれを押さえるどころか、むしろ軍隊・警察の情報網を通じてこのデマが広がり、軍隊・警察や民間自警団によって3,000名以上の朝鮮人が虐殺された。 2)亀戸事件 政府は、火災の鎮った3日から社会主義者を続々逮捕し始めたが、5日革命的労働運動の拠点であった南葛労働組合の河合義虎ら13名が亀戸警察で軍隊の銃剣によって殺害され、その死体は荒川放水路河岸に何百もの虐殺死体とともに放置された。 3)甘粕事件 また9月16日には、妹を見舞い、甥(6才)をつれて帰宅途中の無政府主義者大杉栄・伊藤野枝が、東京憲兵隊長甘粕正彦大尉に拉致され、虐殺された。とも記載されていると伝えると、更に驚いていた。




【追記】'23.12.15.
 毎日新聞の喫水線の井上記者のコラム映画「福田村事件」の軽さのことを教えてもらった。
 小説でも映画でも実際の事件を基にした作品には、必ずと言っていいほど付き纏う問題だと思った。森監督が言っているとの「別のタイトルにすべきだった」との弁も(せめてものものとして)ということであって、それでこの件が解消されるというものではない気がする。発言した森監督自身もそれは充分に承知のうえでの発言なのだろう。
 「史実の重み」という言葉で示される「史実」なるものについては、どう描いたところで異議が上がって来るとしたものだ。だから、いかんともしがたいところがあるわけで、表現者は、それらを含めて受け留め負うべき、という事柄だと僕は思っている。そのうえで、責務として負うのは基本的に「批判への受け止め」までであろうと考えている。
 実際、その場に立ち会った者が再現ドラマとして事実を描いたとしても、ピタリと全てが一致するものではない。それは、ドキュメンタリーフィルムなどを観るまでもなく、いわゆる証言というものに少し当たったことのある者であれば、経験則として知っている筈のことだという気がする。記者もそれは百も承知の上で、この記事を書いているのだろう。観るほうにしても、少なくとも僕は、静子や咲江の件も含め、あの映画に描かれた事々の細部にわたる逐一全てが実際にあのまんまで起こっていたものだとは受け止めていない。そのような再現描写など、できっこないのが前提としたものだ。
 それらを踏まえたうえで、僕はそれ(特定の事件を超えた人間にかかわる普遍的なテーマ)を描くために「福田村事件」を借り、史実を矮小化したという印象を本作から感じることはなかった。むしろ、劇映画という表現媒体において「矮小化とは正反対の方向」で製作しようと努めた作品だというふうに感じていることを当該記事によって再認識したようなところがあった。非常に興味深い記事を教えてもらって、ありがたかった。
by ヤマ

'23.12.12. あたご劇場



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