『正欲』
監督 岸善幸

 僕も若い頃、いくらチューニングしても所謂、世間でいうところの「普通」というものと全く波長が合わず、そこそこ折り合いは付けながらも違和感と孤独感を抱いていたことを懐かしく思い出した。才一巧亦不二ではないけれども、大人になるに従い、ただの天邪鬼ぐらいに収まっているのは、まさに十で神童、十五で才子、はたち過ぎれば並の人さながらで、就中、性への興味関心については、頭初から至って凡庸だったから、桐生夏月(新垣結衣)や佐々木佳道(磯村勇斗)、諸橋大也(佐藤寛太)らのような形での異常性に対する性的コンプレックスは抱いたことがなく、水フェチなどは、とても思いが及ばない。

 子どもの時分に水遊びが大好きだった覚えは強く残っているものの、それは特に水フェチなどには亢進していかない“普通”の子どもに普遍的な性向で、僕にも児童公園の水飲み器の蛇口を捻って高く水を噴き上げさせて遊んだ覚えがある。だが、遅くとも僕が中学生だった半世紀前くらいには、もう一杯に栓を開いてもあのように高く噴き上げることは出来ないよう細工が施されていた気がする。そもそも、あの形状の水飲み器が果して病的なまでに清潔志向が煽られている今の時代になお児童公園に残っているのだろうかなどと思いながら、懐かしく観た。

 それにしても、「普通」というのは果たして何なのだろう。普通から外れてしまうことに対する見下し感を拭うことのできない生真面目検察官の寺井啓喜(稲垣吾郎)が、夏月から普通のことですと言われて深手を負っていた、最後の場面がなかなか効いていたように思う。参考までにと訊いてしまうのが寺井の善良さであり、夏月が答えたいなくならないからという言葉の意味するところを解して自身に刺さるところが彼の聡明さだと思った。稲垣吾郎の表情演技がなかなか見事で、実に鮮やかなラストになっていたような気がするけれども、涼子のその言葉で気付ける彼ならば、妻(山田真歩)と息子の様子から、もっと早い時期に気づくはずだと思わぬでもない。

 だからというわけでもないが、僕が最も気に入ったのは、夏月が佳道にもう一人の世界には戻れない気がする。いなくならないでと漏らしていた場面だ。性的指向性の如何に拠らず、心を寄せ合う者同士が密着して抱き合う行為の持つ意味を感じさせてくれていた。逃げるは恥だが役に立つを思わせる擬態結婚があっての新垣結衣の配役かと思ったが、不自然なまでに性行為に対する知識の欠如している二人を観ながら、いわゆる普通の性的関心が湧いてこないのであれば、案外そういうものなのかもしれないという気がしたところが面白かった。自分が普通と思っていることの埒外にある「普通」への想像力を保持するのは、極めて困難なことなのだと改めて思ったりした。

 また、いわゆる普通の映画だといかにも何か後で悪行をしでかしそうな現れ方をする右近(鈴木康介)ではなく、佳道らと同好の士たる矢田部(岩瀬亮)のほうにそれを負わせていたのも、「普通はずし」というか作り手的には確信的に、右近を裏のある人物造形にはしない造りにしていたのだろう。いわゆる「普通」への問題提起をしている映画だから、観客が易々と「やっぱりね」と思えるような「普通の運び」にはしていないわけで、なかなかよく出来ていると思った。

 ただ、今の若者たちにおいては、実際ここまで「普通強迫」があるのだろうかと、水フェチなんぞより、むしろそちらのほうが異様に感じられて仕方がなかった。異分子を排除する同調圧力がとんでもなく高い集団になってきているのだろう。桐生夏月はまだしも、佐々木佳道や諸橋大也の頑なまでのバリアの張り方に、今の時代の生きづらさを感じるとともに、自分が「人並み」でないことへの強い悲観が窺えたように思う。

 諸橋大也の出場するダンスフェスがコロナ禍以前の2018年の設定になっていたのは、マスク着用者が誰一人現れない設えに合わせたものだったのかもしれない。成程と思った。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20231119
推薦テクスト:「シューテツの映画日記」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986372029&owner_id=425206
by ヤマ

'23.11.22. TOHOシネマズ3



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