『汚名 放射線を浴びた[X年後]』
監督 伊東英朗

 一年ほど前の今治での映画大学で会う機会を得て、いろいろ意見交換した際に伊東監督が求めていた人物に出会えたのだなと、画面に映る川口美砂さんを観て思った。四十八年前に享年三十六歳の若さで突然死した父親については、過度の飲酒による早逝だとの“汚名”が着せられていて、川口さん自身も二年前(今からだと三年前と思われる)に放射線を浴びた[X年後]を観るまでは、被曝を疑ってみることもなかったらしい。

 川口さんが訪ね歩く、嘗て遠洋マグロ漁船に乗っていた漁師たちの口から出る、箝口令が敷かれていた当時の様子が、一昨日お話を聞いた木田節子さんの語っていた福島の事情と実に似通っていて、六十年経っても、南方洋が内地になっても、同じような封じ込めが起こることに遣り切れない思いが湧いてくる。

 ビキニ環礁での水爆実験が、'54年に大騒ぎになった第五福竜丸事件の後も '62年まで続けられていたことに大いに憤慨するとともに、'64年の『モスラ対ゴジラ』がアメリカの太平洋核実験のことを取り上げながら、「むかし行われた原水爆実験」として語られていたことに衝撃を受けた県立美術館での特集上映会のことや黒澤監督の生きものの記録['55]のことを併せて思い出した。

 第五福竜丸事件の後も十年近くに渡って南方洋での水爆実験をアメリカが続けたのは、遠洋漁業に出るのが日本人だったから頓着しなかったというわけでもないことは、同じ日本人同士のなかにあっても、すぐさま地震国日本での原発再稼働を推進しようとする者が現われ、後を絶たないことからも明らかで、実に因業な話だ。また、昨年だったか今年だったか、地元紙のみならず全国紙でも報じられていた船員保険適用の労災申請に関しては、この川口さん宅から見つかった船員日誌や当時の記録が大きく物を言ったのだろうなと思ったりもした。
by ヤマ

'16. 6.29. NNNドキュメント'16録画



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