入院見舞い若尾文子特集

『美貌に罪あり』['59] 監督 増村保造
『爛(ただれ)』['62] 監督 増村保造
『悶え』['64] 監督 井上梅次
『妻二人』['67] 監督 増村保造
『千羽鶴』['69] 監督 増村保造
『好色一代男』['61] 監督 増村保造

 約二週間に及ぶ入院中、退屈するだろうからとポータブルDVD再生機を貸してくれた高校同窓の映画部の部長が添えてくれていた未開封分も含むDVDによって、2015年に“若尾文子映画祭 青春”で一挙六十四作品が上映され、五年後に再び若尾文子映画祭が開催された若尾文子の出演作を三日に分けて六作品まとめて観ることができた。

 手術の翌日に観た三作品の内の増村作品二本は、二十年前の当地での美術館特別上映会“増村保造映画祭”でのセレクト作品からは漏れていたものだ。最初に観た『美貌に罪あり』は、昭和三十四年、吉田敬子(若尾文子)の合格するCAが募集広告に「スチュアデス」と書かれ、三十歳で停年退職だった時分の作品で、トップクレジットに並列される山本富士子、野添ひとみ、若尾文子がそれぞれ二十七歳、二十二歳、二十五歳当時の映画だ。タイトルに偽りなしのいずれ劣らぬ美貌ぶりを誇っていたが、罪ある美貌は誰だったのかというと、生花栽培農家の母親の望む植物研究者周作(川崎敬三)との縁談を反古にした菊江(山本富士子)のようではあるが、いかにも旧家らしく娘の結婚を親が決めようとすることのほうが罪としたもので、美貌が罪となっていた者は、強いて言うなら、菊江を惑わせた藤川勘蔵(勝新太郎)だったような気がした。

 旧家の豪農だった吉田家の未亡人当主ふさ(杉村春子)が公団団地造成を企図する元小作の不動産業者吉造(潮万太郎)からの再三の要請に屈した直接の原因は、かおる(野添ひとみ)が花を枯らせてしまったことだったが、真因は時代の趨勢としたものだろう。家仕舞いを決めて催した宴で元小作人の面々に厭味たっぷりの個別挨拶を笑いながらしていた姿が印象的だった。日本舞踊が花柳界との縁よりも、TV番組や新聞社主催の文化事業のほうに乗るようになり、敬子が忠夫(川口浩)にあら、ウェットなのねなどと言っていた台詞が偲ばせる“ドライな新時代とウエットな旧時代の交代期”を捉えた風俗映画だったように思う。


 『美貌に罪あり』から三年後の『爛(ただれ)』は、徳田秋声の原作ものながら、いかにも新藤脚本らしい女の恐さと凄みを利かせた、なかなか強烈な作品だった。下着姿でソファーベッドに横たわり煙草を吹かしてボクシング観戦をしている二十五歳の増子(若尾文子)が、二号さん団地とも言うべきアパートの階下の部屋から麻雀に誘われて囲んだ卓がタイトルバックになって始まる映画だ。

 ホステスが社交員と呼ばれ、六十八歳が長生きと言われて、七分に一組の離婚が起きていることがニュースになっている時代の物語で、ナンバーワンホステスから腕利きカーセールスマン浅井(田宮二郎)の二号となり、浅井に離婚させた後、今度は自分が危うく姪の栄子(水谷良重)に夫を取られかけ、姪を泥棒猫!とののしることになる話だった。浅井という男が、女にだらしないでは済まない好色漢で、その二枚目ぶりに少しでも魅せられた女には手出しをするのが務めだと思っているかのような慢心ぶりなのだが、なにせ演じているのが田宮二郎だから説得力がある。

 それにしても、浅井に離縁された前妻柳子(藤原礼子)のほぼ狂死に近い有様にしても、浅井を寝盗った姪の栄子が気を失うまで首を締め上げる葉山増子にしても、父親(浜村純)からも叔母からも兄妹からも追い込まれた結婚式を目前にして叔母に一矢報いたいばかりに浅井に別れの情事を持ち掛けてホテルに入る栄子にしても、凄まじいという外ない執念だったように思う。

 不妊手術の復元のための入院中に夫と姪の間に起こったことを察して現場に踏み込んで押さえた増子、浅井、栄子の殴り合いの喧嘩の派手派手しさが、いかにも増村テイストだったような気がする。そして、『爛(ただれ)』というタイトルよりも、浜村純の台詞にあった「ふしだら」のほうが似合っている物語だったように感じた。


 増村の『爛(ただれ)』から二年、監督が井上梅次に替わった『悶え』は、原作である平林たい子の小説『愛と悲しみの時』を未読ながら、次から次へと現れる登場人物の尽くが変てこりん極まりなく、呆気に取られてしまうラストに至って、こう来るのであれば、もっとコメディ色を明確にしないと、と振り返ってみて初めてコメディだったのかと思い返さずにはいられないような据わりの悪さが何とも心地の好くない映画だった気がする。

 新婚披露宴から始まり、初夜の不首尾に至るまでを入念に描き、“妻という新しい人生”に踏み出すなかで、思いも掛けなかった不能の夫庄一郎(高橋昌也)に美しい夫婦になりましょうと言いながらよろめいた新妻千江子(若尾文子)の半年間の性遍歴と言うも中途半端な心身の彷徨いの帰結が、瓢箪から駒のような目出度し目出度しになっていて呆れ返った。

 上田庄一郎は妻に君がホテルに入ったと聞いた瞬間に僕の生理が変わったんだなどと言っていたけれども、展開的には、部下でもある石川(川津祐介)への嫉妬よりも、夫の不能を石川に漏らした千江子への憤りと激しい往復ビンタと罵りがもたらした興奮が引き金になっていたように思う。原作者の平林たい子は、どのように描いていたのだろう。


 二日目に観た二作品は、ともに美術館特別上映会“増村保造映画祭”で観て以来、二十一年ぶりに再見したもので、『妻二人』は、富裕階層の社長令嬢夫人が風呂をバスと言い、既に死語となっているOLがまだBGと呼ばれていた、半世紀以上も前の昭和四十年代初めの映画だ。タイトルの妻二人は、主婦の友社ならぬ主婦之世界社の社長令嬢で清く明るく美しくを社風に掲げた“立派で尊敬される女”道子(若尾文子)と、愛してるんですもの、裏切られても平気だわと強がり、一途に尽くす“愛される女”順子(岡田茉莉子)ということになるわけだが、柴田錬三郎ならぬ柴田健三(高橋幸治)夫妻や順子の生き方を描いた作品を観ていると、改めて正しさや疚しさといった感覚や価値観が人々にとって、今よりも遥かに重く響いていた時代の作品であることを痛感した。

 健三が順子と別れて道子との結婚を選んだのも、安岡章太郎ならぬ小林章太郎(伊藤孝雄)のように逆玉の輿に乗りたくてというより、順子の献身に応えられない負い目が疚しく、負担になってのもののように描出されていた気がする。そして、順子のアリバイ証言をしに警察に行った段においても、彼女への愛ゆえにというよりは妻から触発された本来の嘘嫌いゆえだったものが、そのアリバイ証言をも否定して己が健三に向ける愛に殉じようとする順子の姿に芯から打たれて、遂に君と逢えば抱きたくなるを越えた域に向ったような気がした。

 それにしても、原作ものの翻案とはいえ新藤兼人の脚本らしく、道子や順子に限らず、姉道子の真・善・美に反発する妹の利恵(江波杏子)にしても、道子の父永井(三島雅夫)の愛人となったうえで、その指示に従い、偽装のための結婚を元伯爵の家系の井上(木村玄)と結んでいた美佐江(長谷川待子)にしても、女性たちのタフで苛烈な人物造形が圧巻だった。

 その女たちの苛烈さによって最も足を抄われていたのは実は、不遜極まりない永井社長だったのかもしれないが、貴族の家系ではない彼が、井上の吐いた貴族って奴は昔から恥知らずなものだとの弁に最も適った現代の貴族であったところが痛烈で、新藤脚本らしいと思った。また、順子の頬も道子の頬も張り回す小林を観て、増村保造映画祭の日誌増村作品では、やたらと男が女を殴る場面に遭遇して、いささかうんざりさせられる。粗雑で幼稚な暴力に訴えるしかない男の脆弱さを表しているのだろうが、その頻出には閉口する。と記したことを思い出した。


 続けて観た『千羽鶴』も二十一年ぶりの再見だが、何とも凄まじい男女関係の物語だ。ノーベル文学賞受賞記念と銘打って、予告篇に日本の美、日本の心、日本のおんなと謳い上げて本作を映画化している半世紀余り前の昭和の時代に恐れ入る。今の時代ほどに人々が幼稚になっていると、到底、適わないことのように感じた。

 京マチ子【栗本ちか子】と若尾文子【太田夫人】を愛人にしていた三谷(船越英二)に唖然としていたら、パトロンを亡くした太田夫人が、父親の面影を見出した息子の菊治(平幹二朗)に言い寄り、親子に渡って深い仲になるばかりか、二人ともども執着し合った挙句に、夫人が太田との間に設けた娘の文子(梓英子)から咎められ、恥じられて自殺した後、今度は菊治が文子に執着して深い仲になっていく過程に対して、太田夫人との間で諍っていた栗本ちか子が何とか仲を引き裂こうと躍起になるという、本作に七年先立つ同じ増村・新藤・若尾トリオの『爛(ただれ)』以上に、爛れた関係の色模様が描かれている。これを以て「日本の美、日本の心、日本のおんな」としているのだ。女の情念・業の凄まじさを描くにしても、ここまで突き抜けているとは全く恐れ入る。

 まさに新藤脚本らしい女の恐さと凄みは、原作の川端康成の小説では、どこまで造形されているのだろう。三谷・太田双方の親子間の関係における倒錯性は、いかにも川端的イメージがあるものの、栗本ちか子の人物造形には、新藤による脚色が大きく働いているような気がして、未読の原作小説に当たってみたくなった。

 ビデオパッケージの記載によれば、菊治役は、市川雷蔵の希望だったものが体調不良で平に交代したものらしい。確かに本作を観ても、何だかヌメッとした色男ぶりは雷蔵に打ってつけのように感じた。それにしても、ちか子が年じゅう熱っぽい目をしてふにゃふにゃして気味が悪いと言う女くささの権化を演じて抱いて…絞めて…と迫る若尾文子に恐れ入った。そして、妄想的な隠微さのイメージを閉じられた茶室と茶道の観念性に被せてきている意匠に感心した。


 最後に観た唯一の時代劇『好色一代男』では、後年の『千羽鶴』では望みながらも色男を演じられなかった市川雷蔵が、かの世之介を軽妙に演じていた。カネが命の吝嗇家の父(中村鴈治郎)と、女が命の享楽家の息子世之介のいずれも真似のできない事柄ながら、何とも気の知れないことだという気がしてきた。これほどの戯画化というのは、もしかすると西鶴は、両者を共に戒めたくて原作をものしたのかもしれないと思うほどだった。

 勘当を解かれて継いだ大店を派手な放蕩であっという間に潰し、挙句の果てには夕霧太夫(若尾文子)を死なせて、三千三百三十三人の女の髪でなった綱で好色丸を繰り出し、日ノ本を抜け出て女護ヶ島を目指していた。そんな世之介の果たしたことと言えば、網元の囲われ者だったお町(中村玉緒)を自死させたことにしても、出国にしても、お上や網元などの鼻を多少明かしただけのことで、女人を束の間喜ばせはしても、決して幸せにはしなかったような気がする。

 映画としては、せっかく北は仙台から南は熊本まで諸国を漫遊させておきながら、地図上の表示だけで各地の土地柄を忍ばせる趣向がまるでないのが、残念だった。
by ヤマ

'23. 6.23,25,30. DVD観賞



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