『生きたい』['99]
監督・脚本・原作 新藤兼人

 タイトルからして黒澤の『生きる』を意識しての作品かと思いきや、木下版楢山節考['58]のラストショットに現れた昭和三十三年当時の駅舎の、四十年後の駅舎を山本安吉(三國連太郎)が訪ねている場面から始まる新藤版『楢山節考』とも言うべき作品だった。

 その新藤が脚本を担った銀座の女['55]の幕開けに現れていた養老院【老人ホーム(今でいう高齢者施設)】を、ある意味、現代の姥捨て山に見立てたような構成の作品だったことについては、1983年の老人保健法制定による所謂「老健制度」の見直し(中段 高齢者医療制度創設までの歩み 参照)が大きな政治問題になっていた当時の状況を反映しているように感じたが、結末のつけ方には、些か安易さを覚えた。

 馴染みのスナックバーで酔って漏便を繰り返す安吉の人物造形にしても、躁鬱病を抱えているとの設定によって過度にエキセントリックな人物造形を施されていた長女の徳子(大竹しのぶ)にしても、戯画が過ぎて迫真性から遠ざけていた気がするが、深刻な問題だからこそ、敢えてそうしていたのかもしれない。

 かつて安吉と関係があったと思しきスナックバーのママ(大谷直子)がカウンターに上がってフラメンコを踊る場面が矢庭に現れたことで先ごろ観たばかりの波紋を想起し、更に木下の永遠の人に想いが及んだ。

 それはともかく、スナックバーの常連客と思しき大学生(大森南朋)が口にしていたまもなく日本は四人に一人が老人ですよとの台詞が印象深かった。四半世紀前の映画だ。今頃になって異次元の少子化対策などと言いつつ、ほとんど買収に近いような個人給付といった目先の集票施策しか講じようとしていない現政権に対する皮肉に聞こえてきて仕方がなかった。

 また、モノクロで映し出されていた姥捨て物語の仕立てが、木下版の風情に加えて、新藤作品らしく性の問題を大きくクローズアップして今村版のテイストも盛り込んでいた点が目を惹いた。BS松竹東急よる8銀座シネマらしく、納の儀式におけるオキチ(中里博美)の簾越しの立ち姿の遠景乳房にも暈しを掛けながら、臨月の膨らんだ腹の上に鎮座する両乳房には暈しを掛けていなくて驚いた。

 すると、SNSで映友女性から、臨月ならば性的意味合いより、赤ちゃんのものという意味じゃないですかとのコメントを貰った。まさしくその通りだろうと僕も思う。だが、「母」性はかまわないけれども、「女」性は駄目だというのは、かなりおかしな捉え方だと思わずにいられない。臆面もない女性差別ではなかろうか。「男」性の乳首はいつだって暈しは入れないのだし、なぜ「女性」だけなのだろう。
by ヤマ

'23. 6.16. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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