『麻雀放浪記2020』['19]
監督 白石和彌

 昭和二十年の坊や哲(斎藤工)が、2020年にタイムスリップしてきて昭和哲となって闘牌する放浪記を観ながら、和田監督の麻雀放浪記['84]を半端にリメイクするよりは、やさぐれ雀士がふんどし雀士となって一世を風靡し、昭和の“ノーパンしゃぶしゃぶ”ならぬ“ふんどししゃぶしゃぶ”を流行らせて、普通の博奕では燃えなくなるのではなく、普通のセックスでは感じられないドテ子(もも)との間で育んだ純愛キスの落雷によって、オックスのママ(ベッキー)を卒業していくなどというトンデモ話に転換するなかで、(昭和の時代に)帰りてぇとの哲の願いにかこつけた馬鹿ネタ話にするほうが、現代世相のお馬鹿さを撃つとともに、カネが全てではない手積み麻雀の時代の昭和ノスタルジーを喚起できるのかもしれないと、妙に納得してしまった。

 戦後間もない窮乏期は確かに荒廃していたかもしれないが、個人に対してはマイナンバーによる監視を徹底し統制を強める一方で、政府に対しては、公費を浪費した五輪の中止であれ、麻雀五輪へのすり替えであれ、賭博容疑による逮捕拘束の恣意性であれ、至って統制を欠いた野放図なものになっている近未来現代のほうが、遥かに荒廃しているという作り手からの風刺がけっこう利いていた気がする。現代社会における「謝罪会見」なるものへの皮肉もなかなか痛烈だった。

 それにしても、マダムの集まる「褌楼閣」なるホストクラブとは、苦笑するほかなかった。オーナーの大恩寺くそ丸を演じた竹中直人には、妙に似合っている気がしたけれども、メイド喫茶ならぬメイド雀荘でのコスプレ麻雀よりも馬鹿さ加減では上回っている気がした。また、五輪だから五筒(ウーピン)かと思っていたら、最後の五枚目技にも通じていて、少々感心した。思わず失笑してしまったのが、森ならぬ杜五輪会長(ピエール瀧)だった。ドテ子のフェチ対象がシマウマだったことにも意表を突かれたが、触発されて想起したゼブラーマン['04]は昭和キャラではないものの、ゼブラーナースを演じていたのが鈴木京香だったことを思い出し、笑いが漏れた。

 SNSで60後半~70前半くらいの「不良性感度」と言われた時代の東映精神を蘇らせようとした映画でしたね。とのコメントを貰ったが、まさしく鈴木則文の映画のようなノリだった気がする。御仁曰くこれぞ「東映風レトロ・フューチャー」❗とのことで、大いに賛同。「帰りてぇ」という哲の願いに通じる作り手の映画人としての想いが込められていると同時に「ヤクザ映画だけじゃねぇぞ、俺が好きなのは」という声が聞こえてくる東映作品だったように思う。
by ヤマ

'23. 1.15. DVD観賞



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