『Pearl パール』(Pearl)
監督 タイ・ウェスト

 前作X エックスを観た際にこれまで専らハワードが後始末的に担ってきた殺人の領域にパールが踏み入れたなどと記していたところを一蹴するパワフルなパール(ミア・ゴス)像に圧倒された。なぜ今から百年余りも昔になる1918年なのかという部分は、第一次世界大戦以上に、スペイン風邪の大流行という近年の新型コロナ禍を意識したものだったようだ。

 移動や交流が封印され、閉ざされた関係のなかで葛藤に苛まれることが、いかに人の精神を蝕むのかということを痛烈に描き出していたような気がする。ポーチに置き去りにされた子豚の丸焼きに湧く蛆と腐敗のイメージがなかなか鮮烈だった。前作で脚本・監督を担っていたタイ・ウェストに加えて、主演女優のミア・ゴスが脚本参加したことによって、一世紀前から今に至る“女性の生き難さ”というものが前面に押し出されていたように思う。本作で露わにされていた母娘間の愛憎関係や夫の不在がもたらす、憤りと欲求不満の凄まじさに恐れ入った。

 人々の感覚において、かつて高位に置かれていた「理想」が“お花畑”といった揶揄とともに蔑ろにされ、超克していくべきものとされていた「現実」のほうに居直ることが当然視されるようになってくるなかで、多くの人が「自分らしさ」だとか「ありのまま」といったものを過剰に肯定し、理想とは別物の欲望の昇華でしかない「夢」なるものを過剰に持て囃す風潮に対して、かねがね苦々しいものを感じてきていた僕には、ある意味、痛快でもあるホラー作品だった。

 パールが囚われ続けていた夢の「欲望の極大化された妄想」でしかない始末の悪さや、義妹の絆を交わしたミッチィ(エマ・ジェンキンズ=プーロ)に促されて、出征中の夫ハワード(アリステア・シーウェル)に言いたいけれど言えない秘密と本音をミッチィ相手に開陳していた場面が圧巻だった。人間誰しも、有り体では決して愛されも許されもしない“怖い生き物”であることが偽らざる“女性の素”として表出されていて、実に見事だったように思う。自身でも生まれ変わり一線を越えてしまったと漏らしていたパールが、自身に目覚めて認める自分らしさとありのままを抱えて、戦地から帰還した夫に向けた表情だと思われる顔を映し出した、ラストショットに圧倒された。いびつに歪む笑顔と涙のロングカットには哀切さえ漂っていて参った。ミア・ゴス、大したものだ。ここから六十年が過ぎて、前作へと至るわけだ。

 また、ギブス生活を余儀なくされて一か月近く映画館に行っておらず、久しぶりのスクリーン観賞ということも手伝っていたのだろうが、昔の映画風のクレジットデザインや古めかしいアイリスインアウトの多用など、凝った画面作りを映えさせる色遣いも愉しかった。実に刺激的な映画だったように思う。
by ヤマ

'23. 7. 7. TOHOシネマズ8



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