『野いちご』(Smultronstället)['57]
監督 イングマール・ベルイマン

 長年気になっていた映画を「これがベルイマンの『野いちご』か」との思いとともに観る機会をようやく得た。齢七十八にしてルンド大学の栄えある名誉博士号の授与式を目前にしたイーサク・ボルイ医学教授(ビクトル・シェストレム)が、“失われた時”と“生きながらにして死んだ男”を暗示するシュールな夢を見ていたことからすれば、野いちごというのは、市民ケーン['41]における薔薇の蕾のようなものなのだろう。

 ひょんなことから式典までの十四時間に及ぶドライブを共にすることになった、息子の妻マリアン(イングリッド・チューリン)から、一見とても穏やかな紳士で誰もが人格者と敬うけれど、近親者からすれば冷たいエゴイストと言われ、自らも“冷たい優しさの罰としての孤独”を負っている自覚を夢のなかで露わにしていたイーサクの悔恨の発端は、婚約までしていた三歳下の従妹サーラ(ビビ・アンデショーン)を、十人兄弟姉妹の二歳下の弟ジーグフリドに奪われたことにあるようだった。

 この「冷たい優しさ」という言葉は、いつも冷静で許容度が大きいと見られがちな僕が二十代前半に直に投げかけられた覚えのある言葉で、その罰は孤独だというイーサクの夢には納得感が湧く。立派すぎて親しめない、子供のようなところがあるのに…と零していた婚約者のサーラが去って行ったことの真因は、その「冷たい優しさ」のほうにあり、既に亡くなっている妻カーリンが四十年前に浮気をしたのも、それ故だろうと思っている節のあるイーサクの人生の悲哀が、社会的成功や経済的余裕で埋められるものではないことを描いていたような気がする。

 昔の婚約者と同名のサーラ(ビビ・アンデショーン)が、詩人で信仰者のアンデシュと無神論者の医学生ヴィクトルとの間で揺れているなか、名誉博士号授与式の祝宴後に、夜の窓辺で言祝ぎの歌を贈り、別れを告げたあとあたしが好きなのはイーサクおじさんよと言ったのは、恐らく彼の夢のなかなのだろう。五十余年も、そこまで引き摺り続けているのかと恐れ入った。

 それでもイーサクには、何十年も傍らで仕え続けてくれている家政婦アグダがいて、互いに名で呼び合うことにしようと申し出て断られながらも去る様子はなく、またマリアンが義父と過ごした時間が功を奏したのか、息子エーヴァルド(グンナール・ビョルンストランド)との仲がどうやら修復されたようだったから、既に受胎していた孫をマリアンが出産する日を迎えれば、イーサクも生きながら棺から這い出てくるような夢を見なくても済むようになるのではないか、という気がした。孫の存在というものには、それだけ大きな力があることを、イーサクより十三歳も年下ながら、僕は体験として知っている。
by ヤマ

'23. 6.29. BS2衛星映画劇場録画



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