『鬼火』(Le Feu Follet)['63]
『まぼろしの市街戦』(Le Roi De Cœur)['66]
監督 ルイ・マル
監督 フィリップ・ド・ブロカ

 両作とも名のみぞ知る宿題映画だった半世紀以上前のフランス映画を映友の主宰する合評会の課題作として、初めて観る機会を得た。ともに反戦を訴えながら、実に対照的なスタイルになっているところに大いに感心した。このカップリングで課題作としてきたところが、なかなかのお手並みだ。僕の支持は、断然『まぼろしの市街戦』だ。

 先に観た『鬼火』は、部屋にマリリン・モンローの切抜き写真が貼られており、'63年の作品で特に断りがなかったから、アラン・ルロア(モーリス・ロネ)が従軍した戦争というのは、おそらくアルジェリア独立戦争なのだろう。その敗戦による失意から虚無に陥り、アルコール依存症に至ったと思しき青年が、二年前に結婚したばかりだというのに、妻ドロシーと離れた豪奢な治療施設暮らしのなかで、妻とも旧知と思しきリディア(レナ・スケルラ)とベッドを共にしているオープニングであなたの最大の敵はあなた自身よと引導を渡されていた言葉のとおりに終える、全編エリック・サティの音楽が流れる、洒落た造りの映画のなかで繰り広げられる御託の鬱陶しさに、些か辟易としてしまった。

 アランが明日、出発すると言っていた行き先というのが妻やリディアの暮らすニューヨークではなく、もしかするとあの世のことではないかと思い始めたのは、アランが誰に御託を並べたうえで別れを告げたときだったろう。人生が僕には緩慢過ぎるだとか祭りは終わった生きることは屈辱と同じだなどと言っていたことは、直ちに辞世に繋がるものでもないと思いながら、そんな気がしてきたときがあった。ただ、単に平凡な安定にイラついての厭世ではないと感じながらも、まさか旧友たちに烙印を押すための再会を漏れなく念入りにこなしていたとは想外だった。

 '63年作だから、'60年代後半の政治の季節の到来に先駆けている映画だが、描かれていたアランの心情は、政治の季節の挫折後の青年に通じるもののように感じた。とはいえ、時流の変化に乗り遅れ、過去に囚われた青年が、自分を置いて変わり身速く、巧みに時勢に乗って平然と生きている旧友たちに抱いていた憤りなり蟠りによって、自ら身を滅ぼしていっただけの物語のように感じられて仕方がなかった。虚無と言うより享楽のほうが目に付き、享楽を享楽に出来ない姿で虚無を描いているのだとしても、苦悩の欠片も感じられなくて、さっぱりだったように思う。ルイ・マルとは、どうも相性が好くないようだ。二十七年後の五月のミルもそうだったが、どこか「いい気なもんだ」との印象を誘われるところが難儀な作り手だと思う。


 翌日観た『まぼろしの市街戦』は、正気の人が引き起こす狂気の沙汰とも言うべき戦争よりも、狂気の人が引き起こす乱痴気騒ぎとも言うべき祝祭のほうが、遥かに真っ当で人間的であることを、何とも素っ頓狂な展開によって実に愉快に綴っていて驚いた。手元にある4Kデジタル修復版のチラシは、フランス映画の秀麗なタッチが 美しい感動に昇華する! 世界映画史に輝く奇作!フランス映画のエスプリ溢れだす! 時代も常識も超えた 映画史上に燦然と輝く傑作カルト映画!!との惹句が表に記された二種類のものを持っているが、確かに奇作であり、カルト映画になるだけの牽引力を備えていると感心した。

 独英とも司令官が大佐で、至って身勝手で間抜けな独善者として描かれ、序盤にアドルフと呼ばれるドイツ兵が登場する第一次世界大戦末期を舞台にしているが、無人となった街に繰り出した精神病患者たちから“ハートの王様”と呼ばれるチャールズ・プランピック二等兵(アラン・ベイツ)が、第一次大戦従軍時のヒトラーと同じく伝令兵だったりするところがミソなのだろう。ヒトラーも戦場ではなく、精神病院のほうに行くべきだったのだが、そうはならなかったから第二次世界大戦が繰り返されたというわけだ。

 それはともかく、街に出て化粧を施し、娼館の女主人になるエグランティーヌ【野ばら】を演じたミシュリーヌ・プレールも、プランピックに見初められ王妃となるコクリコ【ひなげし】を演じたジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドも、とても魅力的で大いに目を惹いた。

 また、娼館や王宮といったコスチュームプレイ的に一目瞭然たる衣装による日常乖離を提示するだけではなく、象や駱駝が街を闊歩し、電線を伝う綱渡りといったサーカス技で目を惹き、楽隊が練り歩くという、手の込んだ奇想天外に感心させられた。コスプレだけでは、あの祝祭感は醸成できなかったように思う。そして、その祝祭感を欠いてしまうと、最後にプランピックが何もかも脱ぎ捨てて、戦場ではなく精神病院を目指すことへの共感と納得感が失われるわけで、まさしく映画としての要点になっていたような気がする。精神病院よりも遥かに狂気に包まれた場所だから、プランピックは戦場よりも精神病院を選ぶわけで、単なる敵前逃亡とは訳が違う痛烈なメッセージが込められているように思う。何もかも脱ぎ捨てる姿が実に効いていた。


 合評会では、『まぼろしの市街戦』が揃って支持を得たなか、『鬼火』については支持が分かれた。『鬼火』支持という意見で興味深かったのは、映画作品に表れているオシャレさに惹かれるというものだった。

 アランの魂の遍歴や体たらくをそういうオシャレで描くこと自体に違和感のある僕からすれば、気の知れないところではあるのだが、それを聴きながら、戦争体験で負った傷跡を描く作品として、敢えて取ったスタイルなのかもしれないと思わぬでもなかった。例えば戦争と人間['70-'73]のような剛直な反戦映画には見向きもしない層にも訴え掛けたいが故に取った手立てというわけだ。だがその、お洒落な映画という点から観ても『まぼろしの市街戦』は大したものだと改めて思った。画面がお洒落でムーディなのではなく、滑稽や猥雑を映し出しながら風刺を利かすという“軍隊や戦場の惨状を愚直に描き出す野暮はしない反戦映画”としてのエスプリにおいて、実に洒落ていた気がする。
by ヤマ

'23. 5.13. スターチャンネル2録画
'23. 5.14. WOWOWプラス録画



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