『マディソン郡の橋』(The Bridges of Madison County)['95]
『華麗なる週末』(The Reivers)['69]
監督 クリント・イーストウッド
監督 マーク・ライデル

 奇しくも、特別な意味を持つ四日間を描いた作品を続けて観た。

 先に観た『マディソン郡の橋』は、公開時の二十八年前に観て以来の再見となる作品だ。四十路の元教師である中年主婦、フランチェスカ(メリル・ストリープ)と、取材旅行で村に立ち寄った初老のカメラマン、ロバート・キンケイド(クリントイーストウッド)の“永遠の四日間”のことを母の遺した「屋根付きローズマン橋での散骨」を求める遺言に沿って知った四十路を迎えている兄妹の物語を観ながら、前回観たときは、亡き母の秘められた恋を知らされるマイケル(ヴィクター・スレザック)・キャロリン(アニー・コーレイ)兄妹や、生涯忘れられない“永遠の四日間”を過ごしたフラニーに近いアラフォーであった僕が、彼女と巡り合ったことで念願の出版を果たし得たロバートの歳をも上回っていると思しき、歳月の隔たりを思わずにいられなかった。

 公開当時、主婦の不倫恋愛を美化していることへの賛否と、夫の死後とは言えど、その秘密を墓場に持っていかず子供に明かし伝える押付けの是非について、けっこう意見が分かれ、なかなか話題になっていたことも併せて思い出した。当時、映画日誌には残していない作品ながら、僕自身は是非を問うても詮無いことだと思いつつ、それぞれの意見を興味深く眺めた覚えがある。ある種の感慨を覚える作品だったことは間違いないし、最終的に故人の意思に沿って兄妹が散骨に臨むばかりか、亡き母がルーシー(ミシェル・ベネス)に託した『永遠の四日間』をも見届けていた選択を全面的に支持したものだった。

 ルーシーがディレーニーとの不倫の露見によって村八分のようなバッシングを受けているエピソードがよく利いている作品だと改めて思った。ロバートに出会ったその日から気は確か?と自問しながら浮き立っていたフランチェスカながら、決して羽目外しのような軽々しさで踏み出せることではない1965年当時の田舎村であることを強く印象づけていたように思う。彼女の選択の根底には、それだけ長年にわたる鬱屈の蓄積があったということなのだろう。

 ある意味、夫に対して明らかに責を求めることのできるような不満があって発散できれば、ついでにガス抜きもできようが、夫リチャードは実直で家庭的な“clean”な男で、キャロリンが兄に対して女に弱く嘘ばかり…でも、いい人よと評する夫のように自らに言い聞かせるための「いい人」とはまるで異なるまっとうな夫だったから、フランチェスカとしては、やり場のない鬱屈だったような気がする。

 公開当時、初日から積極的で、ロバートが井戸の水を浴びる姿を見つめる彼女の姿に夫リチャードとの間のセックスレスを指摘する向きもあったが、子供たちを連れて泊りがけで牛の品評会へ出掛ける際にも本当に独り残るのか念を押し、君がいないと眠れないなどと言っていたジョンソン夫妻にそれはないと僕は思う。そのうえで独りになりたい時間を求めたフランチェスカの抱えている鬱屈の、ほぼ限界点に近いまでの堆積に重みがあるように感じられた。

 加えて、四日限定で作り出すことの出来た独り時間の初日に思いも掛けない来訪があり、彼女の愛読するW.B.イエーツの詩の一節を口遊み、二十年前の終戦時に離れた故国イタリアの田舎町バリを知っていたりしたのだから、彼女が神の遣わせた運命的な出会いのように感じてもおかしくはない気がする。ロバートが発した昔の夢は、よい夢。叶わなかったがいい思い出との言葉に目を開かれ、世界各地で最も素晴らしかったのは、人間と動物、動物と動物が共生し、課せられた道徳のないアフリカの自然のままの姿だとの話に吐息をつく。面白おかしい体験談も数多く持っていて、腹の底から笑わせてくれる男に次第に好意を寄せていくフランチェスカのゆらめきを演じて流石のメリルだった。それと同時に、彼女が夫を評して言った“clean”が彼の面白みのなさを意味していたような気がした。ロバートが立ち去った後、酔いも手伝って火照った身体にポーチで風を当て、寝室で改めて自分の体型を確かめて溜息をついたうえで、翌日も夕食に誘う手紙をしたためていたフランチェスカに是非を問うのは酷というものだろう。

 ロバートが多くの人は経験どころか存在することも知らない関係と言っていたものは、深い恋愛関係に立ち至った者たちが決まって口にすることのような気がするが、そのように感じてしまうことこそが恋の恋たる証だと改めて思った。あの美しさは理解されたかとの亡母の言葉は、子供たちや少なからぬ観客にきちんと伝わっていたように思うけれども、美しさではなく浅ましさとして映る観客もまた少なからずいることが露わになった点が、なかなか興味深い作品でもあった。

 “永遠の四日間”を「永遠」にし得たフランチェスカの選択を僕は支持する。作中でも繰り返し言い聞かせるが如く彼女が綴っていたように、十六、七歳の子供を残してロバートと駆け落ちしていたら、かの四日間は「永遠」の時間としては残らず、ややもすると「恨みの四日間」となった可能性が高いのが現実だろうと僕も思う。別人になれた自分を真の自分だと錯覚できる恋は素晴らしくも、危ういものだ。その危うさを回避して「永遠」の時間とする分別を持っていたことを以て、フランチェスカは間違ったことはしていないし、自分の生き様、生きた証を子供たちに伝えたいと考えたのかもしれないと前回、観たときに思ったことを思い出した。

 だが、今回再見して、彼女の遺言は勿論ロバートへの想いが促した部分もあろうが、もしかすると、子供たちの結婚がうまくいっていないことを気取っていた彼女が、第一義的には、子供たちに向けて残したものだったのかもしれないと思った。実際、フランチェスカの遺した三冊の記録は、二人の子供が自分たちの結婚生活を観直す契機になっていた。施錠した箱に収められていた遺言書の最初にでも歳を取ると恐れは薄れるのですと記していた真情は、子供たちに理解してもらえるかということ以上に、三冊の記録を読ませることで子供たちに与える影響のほうだったのではないかと思った。どんな人間だったかを知ってもらわずに死ぬなんてとても悲しいことですという思いだけではなく、子供たちの結婚生活のことを案じていたのではなかろうか。

 そしてロバートが『永遠の四日間』を出版して残したように、フランチェスカは、永遠の四日間を三冊による回想形式の小説『マディソン郡の橋』として証拠品を添えて書き残した、という映画だったような気がした。今回そう思った契機は、娘キャロリンの台詞にもあった「チャタレー夫人」もどきの場面というものを、イーストウッドの老体にもかかわらず、敢えて挿入してあるところが気に掛ったことだった。これはもしかするとフランチェスカが実体験を基にした“小説”として、意図をもって綴った物語だったことを示しているのではないかという気がしたわけだ。そして、その意図と願いは何だったのかを思うと、箱に入っていたほうの遺言書に繰り返し書いてあった子供たちへの愛が、一番の動機だったのではないかと思い当たった。

 二十二年前に駆け落ちすることを思いとどまった際に彼女が言っていた子供に与える影響への懸念の大きさからしても、死期を察したフランチェスカが最後に試みる動機は、そこにあったような気がしてならない。世評とは異なるのだろうが、身を挺して賭けた“大いなる母の愛”を謳い上げた作品として本作が映って来た。かつて教え子の可能性を信じて奉職していたように、我が子たちの可能性を信じたのだろう。

 すると、先輩映友が自分がすれば、美しい恋愛で相手は「恋人」。他人がすれば、不倫で相手は「愛人」。この身勝手な世間というものは、なんとかならんもんかね。との声を寄せてくれた。全くそのとおりだと思う。本作を観てさえ、フランチェスカを浅ましいなどと評していた意見には当時、魂消たものだったが、本作には、フランチェスカがルーシー宅を手作りケーキを提げて訪ねるという大切なシーンがきちんと添えられている。


 翌日観た『華麗なる週末』もまた、劇中に言う背徳の魅力に浮き立つ四日間を過ごして「永遠の四日間」となる物語だったような気がする。字幕で「賊徒」と記されていた原題“The Reivers”のどこが華麗なる週末なのかと、そのヒット作あやかり邦題と、いかに百二十年前だとはいえ、登場人物たち皆人の大らかでは済まされない、悪気のない出鱈目さの余りのことに呆れながら、タイトルクレジットにウィリアム・フォークナーのと記されていたことに対する疑念が湧いたが、最後まで観ると、なかなか悪くない味を残す作品だったように思う。

 ひとえにそれは、11歳のルーシャス少年(ミッチ・ボーゲル)と、人々から“ボス”と呼ばれていた少年の祖父(ウィル・ギア)の終盤での対話場面、そしてルーシャスの純真に触れて娼婦稼業を辞める踏ん切りをつけていたコリーを演じたシャロン・ファレルの魅力によるものだったような気がした。いかにも '60年代作品らしく、男気とは何かを問うている映画だったように思う。

 提示されていた最低モデルが、あの全く気分の悪い下衆保安官というところだろう。権力濫用も甚だしい言いがかりで娼館一行と、ルーシャスを連れ出し自動車旅行に誘ったブーン(スティーヴ・マックイーン)とネッド(ルパート・クロス)を収監しておいて、娼婦を辞めたコリーが自分に身を任せれば、全員釈放するとして彼女に人身御供を迫っていた。全く男気の欠片もない下衆男だった。

 さんざん調子のいい出鱈目を重ねてきたネッドがルーシャスに、車を勝手に借用してきたことの言い訳も、娼館に泊まった言い訳も、車を失くしたことの言い訳もできるが、ボスに教わった男気については、どうだ?と草競馬のレースに臨んで土壇場で騎乗しないと言い出したルーシャスに問い掛けたとき、男なら勝負を前にして怖気づいて逃げ出すなということかと思っていたが、祖父がルーシャスに説いたのは、もっと含蓄のある言葉だった。

 背徳の魅力に駆られて過ごしたルーシャスの四日間に対して、父親が不本意ながら懲罰のベルト打ちを加えようとしていたのを制し、親父もそうやって躾けてきただろとの息子の抗弁に対して、未熟だったからだ。罰を受けることで帳消しにできると教えてはいかんと返して階上へと促し、静かに孫息子と交わした対話のなかで男なら、自分の行動に責任を持ち、結果が招いた重荷に耐えろ。たとえ、そそのかされてしたことでも分かっていたはずだ、本当はしてはいけない悪いことだと。と諭し、真の悔悛を引き出していた。

 勝手に持ち出した車を一時は失うことになりかねなかった大失態を結果オーライで凌いで帰ってきた四日間によって、自分のなかに大きな変化を感じつつも、旅から帰ってきてみれば、そこは何も変わりのない光景の拡がる我が家であったというルーシャスの回想独白に、大人世界を垣間見る体験を経てきたことで観慣れた景色が違って見えてきたというのが常套のはずなので、少々意外に感じていたのだが、特別な四日間となる仕上げは、祖父の言葉だったのかとフォークナーにしてやられたような気がした。
by ヤマ

'23. 5. 1. DVD観賞
'23. 5. 2. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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