『窓辺にて』
監督・脚本 今泉力哉

 直木賞級の文学賞を受賞したと思しき高校生作家の久保留亜(玉城ティナ)の元カレ水木(倉悠貴)から呼び出された元作家のフリーライター市川茂巳(稲垣吾郎)が、携帯電話を掛けながら水木が席を立った隙に喫茶のウエイトレスを呼んだ際に「あ、パフェだな」と思ったら、そのとおりの注文だったとき、三年前に観た愛がなんだのラストで味わったニンマリ感のことを思い出した。いい映画だ。

 タイトルに示されている“窓辺”にて交わされたいくつかの会話場面と、それなら「ベッド辺にて」が裏タイトルだとも思わせる、有坂(若葉竜也)とタレントモデル藤沢なつ(穂志もえか)、市川の妻紗衣(中村ゆり)と売れっ子作家の荒川円(佐々木詩音)、そして市川と留亜の、ホテルでの三つの会話シーンが印象深かった。男女の違いはあっても両方とも独身者の側から切り出していた“なつからの本気の別れ”と“荒川からのレトリックの別れ”の対照が、ちょうど逆の結果になってしまうのが、男女の色恋の綾としたものだ。

 留亜の提起していた“信頼”という言葉は、僕も若かりし頃に拘った覚えのあるもので、自分の都合のいいように思い込むことについて「信頼」という虚飾を施すレトリックに対する憤慨を覚えたのは、ちょうど留亜と同じような年頃だったような覚えがある。本当の信頼というのは、応分の有体をきちんと見極めたうえで交わすことが前提でなければならず、軽々しく持ち出すべき言葉ではないと主張したものだった。

 人気を得て職業的に書き重ねるうちに本当に書きたいものとは違ってきて、それなりの技量で売れる本は出せるものの、迷いを訴えていた荒川や、TV局勤めの只管消費していくだけの番組制作が耐えられなくなってリタイアした留亜の伯父(斉藤陽一郎)の言葉のなかに、今泉力哉自身が感じているであろう迷いと不安が投影されているような気がした。街の上で』の映画日誌にも記したように、今泉演出との相性の良さを感じる作品だった。ユーモアとデリカシーとサプライズの匙加減が絶妙で、僕にとっては、留亜が言うところのチーズケーキ的パフェだという気がする。

 留亜から言われて荒川の新作『永遠に手をかける』を読んだ水木が、全員が本当にろくでなしだが、最もムカつくのが、妻に浮気をされたことよりもそれに怒りを感じられない自分にショックを受けている男だと言い、最もワケわからないのが、そんな男をそれでもなお好きだと言っている妻だと、当のモデルとなった市川にぶつけている場面を観ながら、坊や、これから教わっていくんだよ、と山口百恵が歌っていた歌の歌詞の一節を想起したりした。

 水木が最もムカつく男だと言った人物のモデルたる市川こそが、僕にとっては最もコミットできる部分の大きい人物だったのは、そこに今泉力哉の“正直なる部分”がきっちり投影されていたからなのだろう。マックス焼肉のはずが流されてしまう藤沢なつにも、不倫よりも苦しい罪悪感と寂しさを抱えている紗衣の佇まいにも魅せられた。好い映画だ。

 茂巳が妻の浮気を怒れないのは、自身が言っていたような“感情の脆弱さ”だけではないはずで、多分どこかで、起こってしまったことに対して仕方ないと思い当たるところがあったのだろう。単純な怒りよりももっと複雑なものが押し寄せてくるから、怒りが表出されないだけであって、怒ってはいなくても平気だったわけではないから、ずっと思い悩んでいた気がする。旧知の映友女性からは、本当に妻を思うなら、「別れよう」ではなく「やり直そう」なのに全然ダメな旦那さんだと指摘されたが、それも御尤もと思いつつ、今泉の芸風(と言っても、茂巳が荒川に断っていたように「それは貴方がそう思ってる、ってことですよね」ということだが。)からして、自身による脚本・監督で「やり直そう」での元鞘などあるわけないと思うから、些か驚いた。茂巳のパーソナリティからすれば、離婚にしても、紗衣に対して茂巳が一方的に突き付けたのではなく、二人で出した結論のはずだ。

 茂巳のほうは、先ずは温泉旅行を提案し、寄り添うところから始めたのに考えておくと留保した紗衣のほうが結局、断ったのだという気がする。有坂一家に譲ったのだから、一旦は了承し行くことにして予約を入れたに違いないのだが、それを中止したことについては、有坂の妻ゆきの(志田未来)が市川家を訪れて話した夫の浮気についての相談を夫婦で聴く羽目になって、紗衣の疚しさを刺激したことが大きく作用していたように思う。

 人生におけるタイミングというものは、予期せぬ形で大きく左右するものだが、ゆきのの姿が紗衣にはかなり堪えたはずだ。いたたまれなくなって、その場を逃げ出していた。茂巳が書けなくなったことに対して「不倫よりも苦しい罪悪感」を抱いていたと思われる紗衣において、不倫に対する罪悪感のほうもそれに匹敵するくらいになってしまったのだろう。紗衣もけっこう自我の強いタイプだと感じられるだけに、その両者を一気に解せるだけのものが茂巳からの「やり直そう」に宿り得るようには思えなかった。

 リスタートというのは、スタートよりも遥かに難しく、読み取る力に長けた茂巳なれば、今回のことで妻が不倫よりも苦しい罪悪感と寂しさを抱えていたことを知ったわけだから、映友女性の言うような「やり直そう」などという言葉で収まるとはとても思えないだろうという気がする。茂巳に、それらを見越したうえでの「やり直そう」をレトリック的に発するのは、かなり無理があるのは、留亜が観て取っていた“茂巳の正直さ”からすれば無理からぬところで、彼にはレトリックとしての言葉は使えない気がした。もし「やり直す」なら、大元の原因からして、茂巳が再び小説を書くことを始める以外に手立てはないように思う。それは、今までの生活の延長線でもって果たせることではないのだろうから、ひとまず離婚して、婚姻生活を“手放す”ことで新たに“手に入れる”何かを手掛かりにしようとしたのではないかという気がする。茂巳のそのあたりのデリカシーを稲垣吾郎が実にニュアンス豊かに演じていたように思う。地の部分がかなりありそうな気がしだ。

 そして、もしかすると嘗ての日のように、再び編集者と作家という関わりから始めてのリスタートがあるのかも、という辺りがいかにも本作に描かれた茂巳と紗衣に似つかわしい「やり直し」のように感じた。

 今泉力哉は、かなりなロマンチストだから、凡庸な「やり直し」を二人に与えたりしないように思う。そして、昨今の不倫断罪の風潮に乗って人々が口々に、当事者でもないのに「許せない」だの「社会的制裁を与えよ」だのと激しい言葉を撒き散らすことに迎合しているようなTV取材の在り様に対して、幼児的興奮を爆発させるタイプの不倫ドラマとは異なる大人のディーセントな感情を掬い取ったドラマを描こうとしたようにも感じた。中年男が女子高生とラブホテルに泊まったと聞いて茂巳と留亜の過ごし方を想起し得る人などいないに違いないと思われるような場面を敢えて設えてリアリティを宿らせているあたりに今泉力哉の作家的野心を感じて、快哉を挙げた。



推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983708286&owner_id=425206
by ヤマ

'22.11.12. TOHOシネマズ9



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