『ニューヨーク 親切なロシア料理店』(The Kindness Of Strangers)['19]
監督 ロネ・シェルフィグ

 原題の「変人たちの親切」というのが、新自由主義の席巻した不寛容な酷薄社会では、もはや「親切は変人たちのもの」と言わんばかりの有様になっていることを示していたような気がする。まさしく新自由主義の聖地とも言うべきニューヨークを舞台に描き出した、なかなか痛烈な作品だった。

 暴力行使を己が権限とし正義だと考え違いをしていると思しき警官の夫の元から二人の子供を連れて逃げてきたクララ(ゾーイ・カザン)は、厳しい冬のごとく過酷なニューヨークで、“冬の宮殿”を名乗る1910年開業の歴史を誇る老舗料理店という避難所をたまたま得ることができたからいいようなものの、そこにまつわる少々変わった人たちとのめぐり逢いがなければ、少なくとも次男ジュードの命は潰えていただろうし、暴力夫の元に引き戻されていたのであろう。そのことを思うと改めて、本作には新自由主義に最も欠けているものが何であるのかが露わにされていたような気がする。

 トリクルダウンなどというお零れによる救済などあり得ないのが新自由主義であって、自由の名の元に強者がやりたい放題にすることを以て主義として標榜するなど、もってのほかだというわけだ。本作に現れた救済者に強者は只の一人もおらず、腕利き弁護士ですら苦悩に苛まれて“赦しの会”などというセラピーグループに通っているほどに、誰も彼もが生き辛さを抱えていたように思う。そして、余裕のある者が差し伸べる救いの手ではないからこそ、救うことで救われ、救われることでまた新たな道が開けるプロセスを描いていたところがミソだった。

 己が受傷の代償を図るかのように教会の慈善活動に打ち込んでいた看護師のアリス(アンドレア・ライズボロー)への感謝の想いの表現に端的に表れていたように、当人には悪意も害意もないのに、相手を怒らせるとしか思えない表現を取ってしまうジェフ(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)のようなコミュニケーション障害を抱えていると、職も続かず住まいも失くして凍死してしまうことに至りかねないわけだが、その経験がものを言って、ジュードの救命に働きを見せていたことが印象深かった。もっとも、ティモフェイ(ビル・ナイ)のスプーン出しにさえ切れてしまう元受刑者のマーク(タハール・ラヒム)にドアマンとして雇ってもらっても、どこまでうまくやれるか心許ない限りではあるが、マークがティモフェイに当たったときは、クララに去られた失意に落ち込んでいたことを思えば、それなりにジェフの特性を承知の上で雇ったわけだから、なんとかなるのかもしれない。

 生き辛さを抱えた者同士の寄り添いが共倒れにならず、さればこその救いに繋がるとの捉え方は、赦しの会の集いの思想の根幹を成すものであると感じたが、正鵠を射ているように僕も思う。印象深く使われていた朝日のあたる家が誘う監獄のイメージは、生き辛さを抱える人々における現世そのものなのかもしれない。

 そのなかにあって、多くの人を受容し、言葉に限らず紛い物にさえ寛容なティモフェイの体現していた“緩さ”のようなものこそが、ある意味、徳のようにも感じるのだが、そういう彼が経営を担えば、老舗料理店でも潰れそうに傾いていくのが、新自由主義の聖地ニューヨークというわけだ。なかなか意味深長で、面白かった。
by ヤマ

'21. 3.14. あたご劇場



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