『マトリックス・レザレクションズ』(The Matrix Resurrections)
監督 ラナ・ウォシャウスキー

 エンドロール後のおまけに出て来た“キャットリックス”ならぬ“マトリックス”は、やはりトリニティ(キャリー=アン・モス)の映画だなと思った。

 先ごろ観たばかりのミス・マルクスもそうだし、プロミシング・ヤング・ウーマンもそうだったが、ハリウッド女優が大挙してセクハラ告発したことで一躍拡がりを見せた“#MeToo運動”の潮流のなかにあるように感じた。これらは、いずれも女性監督&脚本(脚本参加)による作品だが、リドリー・スコットによる最後の決闘裁判やエドガー・ライトの『ラストナイト・イン・ソーホー』にも“#MeToo運動”の影響が強く感じられたように、映画市場が女性優位の上に“#MeToo運動”の流れを受けて、そういう作品が続々と出てきているような気がする。映画は時代を写し取る鏡だという点では、面目躍如たるものがあるように思う。

 そういうなか、ネオ(キアヌ・リーブス)もトリニティも二十年前のキャスティングを確保し、作中で語られるように「リブート」も「リメイク」も排して堂々たる「4」となる復活に挑んでいたことに快哉を挙げた。お構いなしのリセットの拒否を主題にしていた映画『マトリックス』を復活させるなら、ある意味、リセットそのものであるリブートやリメイクは御法度としたものだろう。そこのところをきちんと押さえていることが好もしかった。また、今年観た映画のなかでもお気に入り作品フリー・ガイの原点が『マトリックス』であることを本作によって改めて再確認したような気がした。

 さればこそ、モーフィアスを演じたローレンス・フィッシュバーンはまだしも、スミスのヒューゴ・ウィーヴィングは、確保していてほしかったように思う。十八年前の前作マトリックス・レボリューションズ』の日誌にも記したように、キーパーソンはエージェント・スミスで、今作でも最後に重要な登場をしていたからだ。

 その前の作品マトリックス・リローデッド』の日誌に記したような“スタイリッシュな見栄え”やら、第一作の持っていた“その後の映画を変える作品になるかもしれない”と感じさせるインパクトは、望むべくもなかったように思うが、あくまで“復活”なのだから当然だとも言える気がした。

 それにしても、今時なぜトーキョーだったのだろう。市場の原理が働いて最近は中国にシフトしていたアメリカ映画だけれども、このところの米中関係を考慮して、再び日本に戻ってきたということなのだろうか。まさに「映画は時代を写し取る鏡だ」という点での面目躍如なのかもしれない。




参照テクスト:NHK BS世界のドキュメンタリー
 『マトリックスの衝撃 -仮想現実に覆われる社会-』
by ヤマ

'21.12.26. TOHOシネマズ6



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