『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde)['67]
監督 アーサー・ペン

 四十年前に名画座で観て以来の再見だ。前日に観たタワーリング・インフェルノ['74]のときよりも七歳若い、二十代のフェイ・ダナウェイを観たくて行ったわけではなかったのだけれども、本作での活き活きとした溌溂ぶりには、改めて瞠目した。

 世界恐慌に見舞われた1930年代、まさにフォギーマウンテンとも言うべき見通しの利かない時代にアウトローとして暴走した実在のギャング団を描いた作品なのだが、ドジなC・W・モス(マイケル・J・ポラード)が憧れていた本作でのクライド・バロウ(ウォーレン・ビーティ)には、その機転と果断の見事さにかかわらずも、仲間のドジや失態に呆れはしても咎めない器の大きさがあったような気がする。“霧深い山”の如き大不況の時代でなければ、アウトローとならずも十分に成功できた人物として造形されていたように思う。一方、ウェイトレスあがりのボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)のほうには、刹那的なアウトロー志向の感性が窺えるように感じた。蓮っ葉な感じが実に程よく表れていたように思う。下品には堕しない蓮っ葉さというのは、なかなか得難い稀有な個性だから、光っていたのだろう。

 職業は銀行強盗だと公言して憚らない二人だったけれども、そのくせ破格の非日常を高揚感と共に楽しむ日々に倦んでしまい、殺人をも含むこれまでの行状を水に流せるのならとの“叶いようのない願い”を抱くのもまた、ボニーのほうだったりするところが、いかにもという感じだった。

 あれだけ好き勝手に乱行を尽くしたのだから、以て瞑すべしとなるのは、致し方のないところだろう。四十年後のいま(映画作品としては五十三年後)観ても圧巻の死に様だった。とりわけ、被弾に跳ね回るボニーの姿態が官能的なまでに鮮烈だったように思う。「女は苦手だ」と繰り返していたクライドとボニーのそちらのほうの実際の顛末も、映画に描かれていたようなものだったのだろうか。もしそうなら、派手に撃ち殺される前に、きちんと間に合ってよかったと思わずにいられない。

 ともあれ「俺たちに明日はない」と思わせるような社会状況がもたらすものとして、ボニーとクライドの生と死を描いた作品という観点からすれば、実に巧みな邦題だったように思う。主題曲としてフォギーマウンテンブレイクダウンを採用し、“霧深い山”の時代を駆け抜けてその人生までも breakdown させた二人を描いて、疾走感と軽快さを印象づけた選曲の見事さに匹敵しているような気がする。
by ヤマ

'20. 5.31. TOHOシネマズ2



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