『ベン・ハー』(Ben-Hur)['59]
監督 ウィリアム・ワイラー

 '73年のリバイバル公開時に土電で観た気がするが、記録には残っていない。テレビ放映でも二週に分けて観たような覚えがあるけれど、いずれにしても何十年も前のことだから、久しぶりの大作を一挙4時間スクリーン観賞すると改めて、これぞ映画というべきスケール感に圧倒された。画面は充実しているし、キャラクターは立っているし、物語はすっかり判っていても実に面白く観応えがあった。開幕前に延々と流れる序曲の長さは、二年前に『エデンの東』['55]を三十八年ぶりに再見したときに懐かしく思い起こされたものだったが、ミクロス・ローザによる本作の序曲は、やはり一頭地抜きん出ているような気がする。劇中においては、時にやりすぎ感も覚えたけれども、いかにも大作然とした音楽は、スペクタル作品における映画音楽のメルクマールになっているように思う。

 システィナ礼拝堂のミケランジェロによる天井画『天地創造』に続いて「これはキリストの物語である」とクレジットされ、幾つものカットが数多の宗教絵画で観たことのあるような既視感を誘ってくれる絵画的美しさに満ちていた“イエス誕生”から始まりながら、前半の中盤で罪人送りにされたジュダ=ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)に水を施す場面以外は、後半の終盤に至るまでイエスが姿を現さないのに、確かに「これはキリストの物語だ」と言える内容と構成になっていることに改めて感心した。姿は見せないけれども、ジュダの傍らには常に神がいて試練と誘惑を彼に与え、その積み重ねの果てにいつしか彼の心の中に神が宿り、遂には奇跡の恩寵と福音を得るといった物語になっているように思う。

 試練と誘惑に打ち勝って福音を得たジュダに対置されているのが、今時再見すると就任後一年満たずして辞職に追い込まれた国会での虚偽答弁の疑われる元国税庁長官を想起させずにおかないような、栄達の誘惑に負け、魂を悪魔に売り渡すようにして権力に媚びて幼馴染を裏切り捨てたメッサラ(スティーヴン・ボイド)で、彼の弱さの体現に他ならない強面と微かに疚しさを漂わせた人物像が効いている。彼なりに少なからぬだけの心の犠牲を払ってまで得たものは何だったのだろうと思うと、失ったもののほうが遥かに大きいように感じられる造りになっていて、且つ綺麗事の物語には映ってこないところが大したものだ。そして、観ようによっては、ジュダ=ベン・ハーの辿った迷える心の軌跡が、もしかするとキリスト自身がゴルゴダの丘への歩みのなかで辿ったものであるように描かれていて、さればこそ、4時間もの間、ろくに姿を現さなかったにも関わらず、本作が「これはキリストの物語である」と言い得る作品になっているのだと思った。キリスト者から観れば、他者への思い遣りのみならず、怒りや憎しみ、復讐心にも迷わされていたジュダとイエス・キリストを重ねるのは、笑止千万となるのかもしれないが、イエスと同じ時に生を得たと思しきジュダを主人公にして「これはキリストの物語である」としている趣旨は、そこにあるような気がしてならなかった。

 また、成人したイエスの姿を見届けたいと旅していた東方の三賢人の一人バルタザール(フィンレイ・キュリー)の姿に、二十四年前に自分たちで上映したブレッソンの『バルタザールどこへ行く』['66]を想起し、同作の「どこへ行く」との相関性が何かあるのだろうかと思ったりした。ジュダ=ベン・ハーのキリストへの帰依には恋人エスター(ハイヤ・ハラリート)以上に、バルタザールの存在が大きいように感じられたのは、どこか神がベン・ハーのもとに遣わせた存在のように描かれていたからかもしれない。ところで、エスターの父サイモニデス(サム・ジャッフェ)がうまく隠しおおせたとジュダに告げていたベン・ハー家の財産は、何かに使っているようにもなかったが、どうなったのだろう。

 それにしても、四日前に観たばかりのリオ・ブラボーも本作と同年の作品であることに感慨深いものがあった。昭和三十年代は日本映画興行の黄金期と言われることが多いが、そこにはやはり'30~'40年代の黄金期は過ぎていたとはいえ、これだけの映画を同年に製作していたハリウッドに負うところも大きかったのだろう。
by ヤマ

'20. 5.19. TOHOシネマズ4



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