山本慈昭 望郷の鐘 満豪開拓団の落日
監督 山田火砂子


 相変わらず造りはこなれていないけれど、魂の入った作品だと思った。

 軍隊やそれを動かす国家というものが、特権階級の利権や資産を守ることはあっても、決して自国の民を守ったりなどしないというのは古今東西の歴史で露になっていることで、特に日本に限った話ではないのだけれども、先の大戦での日本での代表事例となるのが、民を守るどころか自決を促し、見捨てた敗戦間際の北満での関東軍や沖縄戦であり、本作でも引揚げ時のそういったなかでの苦難が中心に描かれるのだろうと思っていたら、一味違っていた。

 うかつにも山本慈昭の名を失念していたから思い誤ったのだが、タイトルの「望郷の鐘」は北満の地で聴くものではなく、望郷の想いに駆られながらも叶わなかった人々への鎮魂の鐘だった。

 国は民を見捨てるものだとの作り手の確信は、名作『カサブランカ』リッキーの店でドイツの愛国歌を粉砕する“ラ・マルセイエーズ”の歌声の場面を彷彿させるような、唱歌“ふるさと”が国歌“君が代”を追いやる場面に率直に表われていて、「騙す者と騙される者との両方が揃わないと戦争は起こらない」との台詞に、二度と国に騙されてはいけないとの主張が込められていたように思うが、昨今の政府答弁を小耳に挟むだに、「騙す」などという不穏当な用語が決して不穏当とは思えないようなあからさまな姑息さに呆れ果てていたから、なんだか快哉をあげたくなった。

 それにしても、外敵シンボルの好材となる点での活用のみによって熱心に取り上げていたことが露呈していた拉致問題の外側で、満州引揚者の山本慈昭住職が取り組んでいた中国残留日本人孤児に係る、その後の国家賠償問題は、どうなったのだろう。当事者がほとんど死亡したためか、今や報じられることもなく、僕は顛末を知らない。

 ふと思ったのが、かつて敵国日本人の残して行った孤児を育て上げた中国の民は、鄧小平の開放政策と続く江沢民の反日教育を経て、今やむかしの姿はなくしているのかもしれないということだった。ちょうど日本社会がモラルの底が抜けたようなバブル経済期を経て、バブル崩壊後の平成不況の時代のなかで、自由主義の名のもとにとことん力の論理で勝ち負けのみを追う酷薄社会化しているように、今の中国は欺瞞に満ちた「一国二制度」構想の抱えた矛盾に引き裂かれている気がする。

 それはともかく、棄てられた満蒙開拓団の民が望郷の念のなかで偲んだであろう家路の大半が、けっきょく辿り着けないままのものだったなかで、奇しくも長女冬子(星奈優里)との再会を果たした老慈昭(内藤剛志)が、二人でジャガイモを頬張る場面が心に沁みた。

 何十年間も使わなかったはずの日本語で、当時の父が優しく諭した「ガツガツ食べるんじゃないよ」との言葉を娘が口にするのを耳にし、感無量の想いに見舞われている姿もさることながら、その「ガツガツ食べるんじゃない」という言葉そのものに込められている作り手の“今の日本の勝ち組が恣にする強欲資本主義に対する憤り”のようなものを感じた。

 映画の最後に出て来た満蒙開拓平和記念館の出口で、小学生を引率してきた美奈子先生(常盤貴子)に花を渡していた老婦人は、山田監督のカメオ出演のような気がしたが、どうだったのだろう。観逃している羽田澄子監督のドキュメンタリー映画『嗚呼 満蒙開拓団』を観てみたいものだと思った。
by ヤマ

'15. 5.28. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>