『椿三十郎』['62]
監督 黒澤明


 七年前に今は亡き森田芳光監督によるリメイク版を観たとき、未見作品だと思っていたオリジナル版が未見ではなかったことに思い当たったものの、TVかなんかで観ただけで、きちんと劇場で観たわけではないような気がするなどという話をしたら、それはきちんと観直すべきだと件の先輩から託されたDVDにて鑑賞した。

 さすが名にし負う名作だと改めて恐れ入ったが、本当によくできた脚本だ。味のあるユーモアと人物造形の妙に唸らされる素晴らしい作品で、確かに、これだけ申し分ない出来栄えの作品があって、なにゆえリメイクする必要があるのかと問われれば、必要なしと言うほかない。他方で、パロディではなく潤色も加えずに再映画化して何が悪いと言われれば、それもまた否定されるべきことではないように思う。優れた戯曲がさまざまな形で繰り返し舞台に掛けられることには抵抗感がないのに、映画だと、そのことに対して妙な葛藤が生じるのは何故なのだろうと考えて、再現性の有無に大きな違いのあることに気が付いた。

 スクリーンのなかの役者は歳をとらないし、同じ演技を正確に繰り返せることが物理的に担保されているけれども、ライブの演劇はそうはいかない。寸分違わぬ演技など同じ日の公演でも物理的に不可能な生モノが演劇の醍醐味だし、今は亡き地元の先輩が遺してくれた映画と文学だけは、辺境の地にあってなお本物に触れられる数少ない芸術である。との言葉どおり、映画はその再現性の高さにこそ価値があるゆえに、リメイクに対する抵抗感が生じやすいのだと思う。

 そのせいもあるのか、かなり面白く観たはずなのに、七年前の森田版のキャスティングで記憶に残っていた者は、それが本名かどうかも怪しげな謎の男の椿三十郎を演じていた織田裕二を除くと誰もいなかったのだが、小林桂樹の演じる木村を観ていたら、森田版では佐々木蔵之介だったことを思い出した。ある意味、本作で最も際立っていたキャラクターは、この木村と睦田夫人(入江たか子)だったのかもしれないと思った。もっとも森田版で睦田夫人を演じていたのが中村玉緒だったことは、確かめるまで思い出せなかったのだが、破格の人物ということでは、睦田城代家老(伊藤雄之助)や木村以上で、三十郎に匹敵するくらい桁外れの域にあったのが彼女だという気がする。

 キャラクターというか役柄で突出していたのはその二人ながら、役者としては、やはり三船敏郎が他を圧している。野太い声と粗野な仕草とは対照的な思慮深さと細やかな心根を持つというファンタジックなキャラクターを見事に体現し、睦田夫人の言う“抜き身の刀”の誇り高い孤立に説得力のある存在感を与えていたように思う。この強烈さが、三船あっての椿三十郎との想いをファンに拭いがたいものとして付与しているのは、実にもっともなことだという気がする。

 そして、三十郎が自分と同じ“抜き身の刀”だと観留めた室戸半兵衛(仲代達矢)は、三十郎と同質であり且つ三十郎とは器が異なることの加減をデリケートに体現する必要のある難しい役どころで、決して三船を食うわけにはいかないのだが、そんな分を立てずとも自ずと器の違いが現れているように感じられた三船と仲代の対照ぶりがまた絶妙だったように思う。これらの点に関しては間違いなく、森田版はオリジナルに遠く及んでいない。黒澤・三船・仲代というのは、やはり黄金のトライアングルなのだろう。


森田版『椿三十郎』観賞時のMixi日記 2007年12月15日01:33

 僕は黒澤作品の『椿三十郎』を観ていないと思っていたのだが、どうも手帳に記録を残してはいないTVか何かで観ていたのだった。そのことに気づかせてくれるのは、オリジナルに忠実にリメイクしているからなのだろう。森田監督なれば、パロディ的に向かいそうな気がしていたのだが、彼も歳を重ねたせいか、あるいはそれだけ黒澤作品が偉大なのか、腰元こいそのアクション以外は、音楽にしてもキャラ造形にしても、黒澤版へのリスペクトに包まれている印象があって、妙に森田作品らしくないようにさえ思えた。実にシンプルで骨太な堂々たる娯楽作品だと改めて思った。

 往時のキャラ再現を今の時代に果たせるのかとの懐疑が、むしろ感心のほうに繋がるような出来栄えは立派なものだ。織田裕二の三十郎を観ていて、しばしば三船の姿が思い浮かんだ。喋り口調については、三船よりも中尾彬を想起させることが多々あったのには苦笑を禁じ得なかったが、よくやっていたように思う。





推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_7401.html
by ヤマ

'14. 3.25. DVD観賞



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