『レイルウェイ 運命の旅路』(The Railway Man)
監督 ジョナサン・テプリツキー


 コリン・ファース、ニコール・キッドマン、真田広之というキャスティングなのに、日本のメディアが公開時にほとんど取り上げたような印象がなく、高知では、自主上映での一日上映になってしまうのは、やはり今の日本の状況が影響しているのかもしれない。

 実在した人物を実名のままに描いた「実話を基にした作品」でも、ネトウヨ族などが国辱ムービーのごとく言うかもしれないことを恐れたのだろうか。稲田朋美前行革担当大臣(自民党現政調会長)が以前、靖国 YASUKUNIへの公的助成金の交付を問題にし、公開前に国会での試写を行うよう要請したことに端を発して、上映劇場の周辺を街宣車が荒らすなどしたことから、言論や表現の自由の保証よりも、面倒を避けて続々と上映中止を決めてしまった興行界の惨状から5年余り経て、こういう作品にはハナから目を向けなくなっているのかもしれないなどと思った。

 僕は、エリック・ローマクス(コリン・ファース)のことも、永瀬隆(真田広之、石田淡朗)のことも、本作を観るまで知らなかったが、エリックの妻パトリシア(ニコール・キッドマン)に対して、彼の戦友フィンレイ(ステラン・スカルスガルド)が「あれほど勇敢な行動は見たことがない」と、日本軍の捕虜になっていた時分のエリックの行動について語っていた前半の台詞が効いていて、そのエリックが五十年を経ての永瀬との再会の二度目に、永瀬を讃えて「勇敢」との讃辞を与えていたことが心に残った。

 いわゆる戦争ものとは一味もふた味も違っていた。そして、上っ面の威勢のいい勇ましさとは正反対の真の勇敢というものを見せていた永瀬隆という人物を真田広之がよく演じていたように思う。彼らが最初に出会った1942年頃から38年経った「1980年のエリックとパティとの出会い」から始まる映画を、そこからまた38年経った今の時代に映画化している意義には大きなものがあるように感じた。愛国の名のもとにやたらと非難と攻撃に終始し、自己の正当化に明け暮れる人々が大挙するようになっている今ほど“真の勇敢”というものが、とりわけ為政者に求められている時代はないように思えるからだ。真に慰霊をしたいのなら、政争の具に供せずにすべきことがあるはずなのに、そうしない我が国の靖国問題などを思うにつけ、かような血肉の通った個人の活動(巡礼であれ出版であれ)には心打たれる。

 また、ローマクスが自分とフィンレイの違いについて、パティを得ていたか否かだと語る言葉が劇中にあったように、ローマクス自身の著作が原作となる映画化作品を彼とパティの出会いから始めていたところに、彼のパティへの思いを映画の作り手が最大限に汲んでいるような気がした。

 それにしても、真田広之は立派なものだ。日本映画で最後に観たのは亡国のイージスだから、十年近く前になる。その後も、よくスクリーンでは観ているが、外国作品ばかりになっているような気がする。早川雪洲がノミネートに留まったアカデミー賞をいつか受賞するのは彼かもしれない。奇しくも今回、その『戦場にかける橋』に関係する作品に出演していたものだから、そんなふうに思った。

by ヤマ

'14.10.24. 美術館ホール



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