『瞳の奥の秘密』(El Secreto De Sus Ojos)['09]
監督 フアン・ホセ・カンパネラ


 未解決だったのは、殺人事件よりも恋愛のほうだったのかと唸りながら、種々の感慨が湧いてきた。定年で退官したベンハミン(リカルド・ダリン)のかつての上司だったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)検事が25年間棄てずに残していたタイプライターに欠けていた「A」が、ベンハミンが夢にうなされて遺したメモ「TEMO」に補われ、彼がかつて高嶺の花と諦めた“怖れ”を“愛”へと向かわせていたラストのみならず、あざといまでに拵えられていた物語が情感豊かに迫ってきたから、実に見事な演技演出だ。なかなかこうはできないもので、たいしたものだ。

 退職して自省する暇を得て虚しさを覚え始めた代償に、今なお忘れられない25年前の事件をベンハミンが小説に書き始めたのは、イレーネへの想いもさることながら、殺された妻リリアナ(カルラ・ケベド)の不在にいたたまれず毎日駅で張り込みを続けていたというリカルド(パブロ・ラゴ)の存在が大きかった気がしてならなかった。他者との結婚、殺害という事情に違いはあれど、愛する女性の喪失という点では同じベンハミンとリカルドは、ともに転任による転地を図った点でも同じながら、その志向するところは正反対だったわけだ。

 殺害された日の朝、妻に淹れてもらった蜂蜜入り紅茶を思い出し、亡き妻との記憶が薄れゆくことを嘆いていたリカルドは、とどのつまり亡妻への終生を掛けた固執のために首都ブエノスアイレスを離れたわけだが、ベンハミンはイレーネを断念しようとして首都を去り、転任先で結婚を果たしながらも離婚に至っていた。小説を書き始めたとき、イレーネから逃げた自分と比べ、亡き妻のために毎日駅で張り込みを続けていたリカルドの存在を強く意識していたであろうベンハミンが、自分とは正反対の目的で自分と同じく首都を離れ今なお初志を貫徹している姿から受けた衝撃は、さぞかし強かったことだろう。

 ベンハミンが、四半世紀ぶりに再会したイレーネに「小説の書き出しに悩んでいる」と告げたとき、「一番強く残っている場面から書き始めるといい」と助言されていたが、まさに映画のオープニングシーンとして印象深く描き出されていた“駅での別れ”を書き出しにした草稿は既に紙くずにされていて、その場面は書き上げた小説の第一稿のエンディングになっていたわけだが、映画作品と小説を対照させて凝らした意匠の巧みさに恐れ入った。そして、その第一稿を読んだイレーネの差した苦言に対して、積年の想いを初めて言葉にして露にしたベンハミンに「いくじなしだったのね」と呟いたのが何だか妙に響いてきた。

 ベンハミンに限らず、リカルドもパブロも、そしてイシドロ・ゴメスさえも含めて、男はみんな妙なところに囚われる意気地なしだという気がしてならない。過去への囚われ人であるがゆえに、リカルドは司法が放棄した刑の執行を驚くべき入念さで遂行していたわけだし、ベンハミンの部下パブロ(ギレルモ・フランセーヤ)を酒びたりに追いやったのも、おそらくは過去への囚われで、ゴメス(ハビエル・ゴディーノ)が新婚のリリアナを暴行殺害に至らしめたのも、高校時分の恋人関係への想いを払しょくできなかったからなのだろう。古今東西、男はみな囚われ人で、意気地なしなのだ。だからこそ、力に頼りたがるような気がする。

 だが、多くの女性は、かなり年嵩を積んでからでないとそのことに気付かない。イレーネが25年前に現夫と婚約したのは、きっとベンハミンへの挑発だったのだろうが、少々浅はかだった。それに奮い立ち、映画『卒業』['67]のベンジャミン(ダスティン・ホフマン)のような振る舞いに打って出られる男というのは、実はほとんどいなくて、優しく誠実な男ほど却って礼儀正しく断念に向かいがちなのに、分不相応との負い目があれば尚のことだ。仇となる挑発をしてしまったイレーネもまた若気の至りと言うほかない。だが、そのことに対して悔恨という形で引き摺りはしないのが女性の逞しさであり、靭さだと思う。だから、捨てずに残したタイプライターに想いを託しつつも、自身の選んだ道に対する切り替えも上手い。ベンハミンは離婚し、リカルドは再婚不能となるが、イレーネは二児をもうけて家庭生活もキャリアも全うしていた。囚われに惑わされる男と違って女性は断然適応力が高いというわけだ。

 だが、それでも尚、再び舵を切り直すとなれば思い切りがいいのも女性の見事なところで、25年越しに「話がある」と訪ねてきたベンハミンに「簡単じゃないわよ」と言うと、今度は尻尾を巻かずに「構わない」と答えた彼の言葉に直ちに腹を括り、得も言われぬ笑みを零すことができる。熟年離婚はこのようにして訪れているのかもしれないなどと思わせるとともに、もしかすると、小説を書くことにしたと告げに来た彼の草稿を観て、「これじゃ読めないわ」と件のタイプライターを彼に与えたイレーネの真情は、そこにあったのかもしれないとも思わせる秀逸のラストだった。屋根裏部屋のマリアたちのラストシーンでのナタリア・ベルベケの笑みとはまた違った味わいながらも、実に素敵な笑顔だった。家庭生活とキャリアを全うしながらも、彼女は彼女なりに結婚生活に屈託を抱いていたのかもしれない。

 リカルドが言っていた薬を注射して楽に死なせるよりも、虚しい日々を生涯送る終身刑をという言葉に込められていた人生観が本作の主題とも言うべきものなのだろう。不本意な死よりも不本意な生のほうが更に苦しいのは真実だという気がする。仕事をリタイアしたことでベンハミンが直面した虚しい日々の苦しさは、彼をしてさえも「構わない」と言わせるだけのものがあったということだ。

 それにしても、やり直すために戻るのが、映画の冒頭にあった“駅での別れ”の場面ではなくて、彼が「話がある」と訪ねてきて、部屋のドアを閉めようとしたらイレーネの期待した話ではなく、パブロをも呼んだ仕事の話のほうで、それはそれでまた秘密を要する話になってドアを閉めていた日の場面だったことに、大いに感心させられた。その場面はイレーネが婚約をする前のことだったから、そこまで戻るのが確かにスジだ。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
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推薦テクスト:「銀の人魚の海」より
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by ヤマ

'14. 4.25. イマジカBS



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