『ヒーローショー』['10]
監督 井筒和幸


 大阪でフランソワ・オゾン監督(仏)の『危険なプロット』、マルコ・ベロッキオ監督(伊)の『眠れる美女』を続けて観、高知に戻ってキム・ギドク監督(韓)の嘆きのピエタを観たら、芸術の秋ながらも何だかアート系は秋には相応しくない気がしてきて、かねてより保留中の井筒作品ならば、そのような心配はいらないだろうと観てみた。案の定、アート系のタッチはまるでなく、事件の発端となった桃色遊戯一つとっても、井筒監督の趣味を託したかと思えるような、若者らしからぬナースプレイだった。

 若者と言うも憚られる“馬鹿者”たちを観ながら、しかし、妙にリアルな会話と、状況や言葉に押し流されて簡単に常軌を逸してしまう人間の在り様に、何ら特別さや異常さを持たない“愚かさと思い上がりの罪”の重さを感じて、これまた少々気分が塞いだ。このようなリアルさというのは、何かの作品で感じたことがある気がして思い返すと、『その夜の侍』['12]だった。公園のベンチで黙って涙していたときの久保浩平(高橋努)以外、誰一人共感できない登場人物の実在感に遣り切れない思いをさせられながら、そこに人のどうしようもなさが浮かび上がってきてて、感心させられもした映画だったのだが、己が器を超えた状況における人の有様の情けなさが哀しかった覚えがある。そういう点では、実録・連合赤軍 あさま山荘への道程<みち>』['08]にて示されていたものに通じる部分も窺えるような気がした。

 覚悟も意志も無き「勢いだけ」ゆえに、思慮も咀嚼も無き「思い付きだけ」ゆえに、少し思惑通りに事が運ばなかったときへの対処がおそろしく稚拙なのだが、そのなかでも腕力を頼りにイキガルことの愚の程が強く印象に残る物語になっていた。それは、青春期における若い馬鹿者だけの話ではなくて、国家経営においても同じ話だという気がする。折しも、腕力ならぬ数の力を頼りにイキガッテいるとしか思えない特定秘密保護法案に関する政府要人の発言の“次第にエスカレートしてきている危うさ”に冗談抜きの不安を覚えるようになってきている昨今なので、本作に描かれていた、思いのほか歯向かって来られて企図していなかったはずの殺人に至るまでエスカレートしていく過程で“勢いに任せた思い付き言葉”の果たしていた役割の大きさに、思わず戦慄を覚えた。

 その“愚かさと思い上がりの罪”の重さの点から言えば、いちばん愚かで罪深かったのは、己が色恋に第三者の腕力を最初に持ち込んだ寝取られ男の剛志(桜木涼介)だったような気がする。本作のモデルになったらしい東大阪集団暴行殺人事件['06]と呼ばれる実際の事件とは違って、映画では死者が彼だけになっているのは、そういう意味で真っ当な脚色だという気がする。また、実際の事件では犯行現場を主導したことで死刑宣告がされているらしい人物について、本作では石川勇気(後藤淳平)として、ある意味、加害者でありながらも最も被害者的な立場で描いていることについても、作り手の確信犯的な改変として、大いに支持できることのように思う。

by ヤマ

'13.11.10. ちゃんねるNeco録画



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