『非行少女』['63]
監督 浦山桐郎


 半世紀前に撮られた作品を観ながら、映画における時代の記録性というのは、本当に貴重だと改めて思った。もちろんイチバンの見どころは“荒ぶる清冽さ”とも言うべき和泉雅子の卓抜した輝きだけれども、彼女の演じた十五歳の若枝と二十一歳の三郎(浜田光夫)のロミオとジュリエットばりの清新なラブストーリーの背景にあった、落ちぶれた北家と村議を目指す沢田家の確執の元になった十年前の米軍砲弾試射場用地接収問題【内灘闘争】だとか、昭和38年当時に国鉄金沢駅で既に自動券売機があったこと、教護院が夫婦の寮長寮母による住込み制で家庭教育を重視していたこと、学校にも小使さんが住み込んでいたことなど、そんな出来事があったことすら忘れていたりすることや、今は失われた風景風俗が鮮やかに写り込んでいて感慨深かった。

 そのようななかで僕の耳に最も止まった言葉は、若々しい愛の試みを二人が誓い合う最後の場面で、三郎が言った「会えない三年の間に僕も深く自分を掘り下げてみるよ」という台詞だった。そう言えば、かつては自分というものに対し「掘り下げ」という言葉を使ったものだ。いつからなのだろう、もっぱら「磨き」などという見てくれ側の言葉に置き換わったのは。

 昔は頑なまでに内面重視だったものが有り体に外面重視に変わってきたのは、「本音と建前」論のなかで過剰なまでに建前蔑視と本音礼賛が進んだせいだと僕は感じているのだが、本音というものは得てして身も蓋もないことが多く、本音礼賛の風潮により失われたものが随分とあるような気がしている。僕自身、若い時分には建前に抗い批判してきただけに、消極的加担をしたことになるのかもしれないとの忸怩たる思いがあるが、当時から既に本音礼賛には疑問を抱いていて、なぜに人は何かを批判するとき逆の何かを持ち上げる形の相対化でしか語れないのだろうと嘆かわしく思っていた覚えがある。それにしても、こんな何気ない言葉の端々にまで影響が現れているのだと妙に感心した。何気なく人の口の端に上る言葉というものは、本当に侮れないものだ。

 会場に居合わせた知人は、最後の場面で三年の間離れて暮らす覚悟を交わしながらも「戦争が始まったら飛んでいくからな」と三郎が発言していたことを感慨深げに語っていた。キューバ危機の頃の第三次世界大戦勃発への危機感というのは、こういうところにも現れていたのだなと感心したようだ。

 翻って昨今の映画は、こういう時代性の捕まえ方がきちんとできているのだろうか、甚だ心もとない気がする。映画作品が豊かさを失い、痩せ細ってきているように感じるのは、そのせいではないだろうか。他方で、ぶくぶくと締まりのない肥満体のように、説明過剰によって貧弱を招く作品が増えてきてもいるように思う。一命['11]を観た際に、切腹['62]との際立った差異に改めてその感を強くしたことだったが、そもそも二時間超の長尺作品ばかりになっているところに最近の映画作品の締りのなさが端的に現れているような気がする。それで言えば、旧作ながら本作ももう少しタイトに仕上げたほうがよかったような気がするが、主演の二人に留まらない役者陣の充実ぶりがその弱みを補って余りあった。
by ヤマ

'12. 6.10. 龍馬の生まれたまち記念館



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>