『八日目の蝉』
NHKドラマ

 再放送全6回を一挙に観て、映画になくてTVドラマにあった部分、映画にあってTVドラマになかった部分を比較しての、妙味が増した。全体構成からして、映画版『八日目の蝉の奥寺佐渡子の脚本のほうが、TVドラマ版の浅野妙子の脚本よりも良さそうに思う。

 秋山恵里菜の抑圧されていた記憶の取り戻しによる再生という基軸がより鮮明に打ち出される“回想ないしは振り返り”的な描出が中心になっているという印象を残していたのが映画版で、それには誘拐事件から四年後の犯人逮捕による法廷場面をオープニングに持ってきていたことが効果を及ぼしていたように思う。他方TVドラマ版では、出獄後に自身の手によって燃やされた、獄中の野々宮希和子(檀れい)から薫(北乃きい)に宛てた手紙の束に綴られた述懐が軸となる“編年体的な時系列”で語られていた印象が強い。その分、減り張りにおいても映画版のほうが優っていたような気がする。

 映画版で秋山恵津子を途方に暮れさせた♪見上げてごらん、夜の星を♪の件は、TVドラマには出て来なかったけれども、どうやら原作にもなさそうな気がする。映画版の巧みな潤色だと思った。フェリー乗り場で逮捕された時の希和子の「この子はまだ朝御飯を食べていないんです!」という叫びがTVドラマ版では、非常にクローズアップされていることに驚いたが、歌の件と同様に、これも原作での扱いを確認してみたい事項のひとつだ。僕は、希和子の発した言葉を強調するうえでの選択としては、TVドラマ版の朝御飯の件よりも、映画版の“法廷での謝罪ではなく感謝の言葉”のほうが的確だったように思う。

 もっともドラマ版は長尺になった分、沢田母娘(吉行和子・坂井真紀)の難しい関係性や沢田久美・良太の関係における“母”が語られていて、サライ(高畑淳子)の育児ノイローゼによる子殺しや、子供を亡くして夫婦関係が壊れ出奔した女性[篠原文治の妻]の配置も含め、母なるものに向けられた視線が拡がり、厚みを醸し出していたような気がする。

 だが、何よりもの違いは、篠原文治(岸谷五朗)の登場だった。『八日目の蝉』という作品において非常に重要な位置づけのされていたエンジェルホームが、女性ばかりの駆け込み寺のようなコロニーであったことも作用しているのだが、映画版では、ひたすら男の影が薄く、言うなれば男というろくでもない連中は頼むに足らないばかりか、もはや責を問う対象ですらないという立ち位置が痛烈な作品だったように思われた。TVドラマ版でも、希和子の不倫相手の秋山丈博(津田寛治)も恵理菜の不倫相手の岸田(岡田浩暉)も、確信的に無視されていたけれども、文治を登場させたことによって、その点が全く異なってくる印象を残していたような気がする。男なるものを黙殺した映画版のほうの作家性の強さが際立つのだが、原作ではどうなっているのか、読んでみるのが楽しみになってきた。

 とはいえ、文治を演じた岸谷五朗は嵌り役で、彼にはこういう役処が向いていると改めて思った。そして、TVドラマ版で文治に託して描かれていた「子を失った夫婦」というものを映画版では、被害者たる秋山家の夫婦に窺わせていたのだと思った。そのために、TVドラマ版では原作同様に秋山家に恵理菜の妹がいて、映画版の秋山家では恵理菜に妹がいないという改変が必要だったのだろう。


by ヤマ

'11. 6. 6. NHKドラマ



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