『結婚帝国 女の岐れ道』
信田さよ子 上野千鶴子 対談


 ちょうど僕の十歳上になる上野千鶴子女史の本は、何冊か読んだことがあって、『女遊び』とかいうのは確か書棚にもあったような気がする。その上野女史の二歳上になるカウンセラー信田さよ子女史の著作は、読んだことないが、ここ数日の新聞紙面に写真入りで囲み記事が出ていたように思う。
 S20年代生まれの二人の社会学者とカウンセラーが、S40年代に生まれて1980年代後半からのバブル期を二十歳前後で迎えた世代の女性に対し、「ほかの世代にはない苦しみ」を抱えた存在として、女性としてのジェンダーの股裂き状態と結婚という制度からの脅かしへの囚われなどについて語り合っていて、なかなか面白く読んだ。

 上野女史が、社会学者ゆえのマクロ視線と理論化志向の強い分、明快に向かうやや粗暴な思い切りのよさと共にある、少し硬直に向かう傾向を見せていたのに対し、信田女史には、臨床的な柔軟さと理論的明快に対する懐疑を失わないようにしている態度が窺えるように感じられた。
 社会学的マクロと臨床的ミクロのそれぞれの専門家による対談は、そういう点で興味深く、また、その分析や解説にかかる部分は、両者ともに能弁闊達で、男の僕が読んでも共感するところが多いから、女性にとっては尚更のことだろう。ただ、その生きにくさの理由や現象を達者に見通している度合いに比べると、それへの処方というか対処の仕方については、専門家ながらこれといった有効打を語るに至っていないのは、事の難しさからして止む無いことだとは言え、少々物足らなかった。
 彼女たちからすれば、ちょうど娘世代にも当たる女性たちに対し、ネオリベラリズムの文脈で「自己決定・自己責任」に翻訳された形で、「女性の自立」というフェミニズムというものの強迫を見ている(P259)ようだが、二十代「自縄自縛」、三十代「自業自得」、四十代「墓穴を掘る」という歩みを辿りそうな予見を持っている(P268)ことについて、強迫してくる幻想からの脱却の勧めしか提示できないのは、いささか心許ない。

 そういうなかで、信田女史が「依存はいいの。」と発言(P264)しているのが目を惹いた。対談の中でも種々の分野において言及されていたアディクション(嗜癖)には、僕も懸念のほうが強いが、「いったい“自立”とはどういうものなのかということは、茫漠としている。」と信田女史が語る“自立”については、僕もかねてより思うところがあり、一般的なイメージとして浸透しているように感じられる「自力で立つ」というものとは違うのではないかと思っている。二人の語る“自立”にも、そういった“孤”に繋がるニュアンスを感じたのだが、僕の思う“自立”とは「自力で立つ」とは程遠い「依存の集積」によって安定を得ることでの「自己の確立」というイメージだ。
 仕事であれ、パートナーであれ、趣味であれ、何か突出した一点に依存した形で自己を委ねるのは、到底“自立”ではないが、いろいろなものに依存することで、その一つ二つが欠けても自己の崩壊を来たさない状態にまで依存対象の拡散と集積を図り獲得することが「自己の確立」すなわち“自立”だと僕は考えている。人は、自分の興味関心の外にあるものに対して依存することはできないから、数多くのものに“依存”と言えるだけのコミットを果たすうえでは、自身の啓発・開発が欠かせないし、何よりも“依存”というからには、一定の濃密さと頻度によって依存対象との関係性を維持しなくてはいけないから、そうそう簡単なことではない。けれども、こういった「依存の集積」を獲得すれば、彼女たち二人が繰り返し問題にしている“支配からの開放”すなわち自由の獲得が果たされるのではなかろうか。
 その点では、信田女史の発した「したたかに生きる」を受けて上野女史が語った「自分にはないが、必要なものをよそから調達するスキルさえあればいい。」というのは、僕の考えかたに通じるところがあるのだが、その前段で語っている「自分の分をわきまえるということは、“自分には何ができる”ということがわかると同時に“自分に何ができないか”ということがはっきりわかること。」という発言は、“自分の分をわきまえる”を“自信”に置き換えると、常々僕が考えていることであり、学生時分に文芸サークルの後輩に諭した覚えのあることで、大いに共感を抱いた。

 興味深かったのは、二人の対談の中での価値評価の判断基軸に“勝ち負け”というものが非常に大きなウエイトを占めていることと、女性の身体について“提供物”というイメージを強く抱いていることだった。上野女史の発言に「性的な行為が、支配と所有の刻印になるというのは、近代が性に与えた特権的な意味付与からきています。その点では、被害者も加害者も、両方とも、近代の性のパラダイムから抜け出せていないということでしょう。」(P247)というものがあったが、ACや性的虐待について語り合っていた章の結語として第三者的立場から発している形になっている“近代の性のパラダイムから抜け出せていない”に、まさしく彼女たちも含まれていることを感じないではいられなかった。

 共感的なものとして最もインパクトがあったのは、上野女史の「家庭が、学校や幼稚園モデルで動いている。そうなったら、親という存在の意味はなくなるね。」(P54)であった。続く「学校的価値が家庭に浸透して、親が教育者の目で子どもを相対評価する。もうそうなったら、家庭に子どもの居場所はありませんよ。子どもにとっては、家庭も、学校と同じ“職場”になっちゃうもの。」という認識が一般化すれば、大きく状況が変わると思うのだけれども、それとはむしろ反対の方向に強化されてきていることを常々嘆かわしく思っているだけに、わが意を得たりの気分だった。

 暴力についての考察も共感とともに読んだのだが、痛烈だったのが、「絶対的な優位に立つ者には、暴力のような下等な支配手段は必要ないということです。そういう男を古い意味での“フェミニスト”と呼ぶけれど、男が絶対的な優位にあれば、暴力などという粗野な手段を使わなくてすむというだけのことでしょう。」(P164)という上野女史の発言だった。他人事にできない部分があって、ちょっと痛いところを衝かれた気分になった。

by ヤマ

'08. 7.27. 



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