『シリアの花嫁』(The Syrian Bride)
『英国王給仕人に乾杯!』(I Served The King Of England)
監督 エラン・リクリス
監督 イジー・メンツェル


 政権を握る上での国民支持を得ようとするとき、人々に分かりやすい標的というものが必要なのは、古今東西変わることのない政治の常だ。己が党内の守旧抵抗勢力を標的にして郵政民営化を訴え圧倒的な勝利を収めた小泉政権後に、安倍晋三が中心となってしきりと持ち出していた“北の脅威”という標的は、政権獲得までは何とか持ったものの、その御題目としての脆さと符合するように短命政権となったわけだが、今回、民主党が圧勝するに至る経過のなかで標的に掲げているのが“官僚支配”で、政局にのみ敏感なTVメディアでは早速に役人を主人公に据えたドラマをやっていた。同じような時期に民放で中央官僚を扱った『官僚たちの夏』が放映され、NHKでは自治体職員を扱った『再生の町』が放送された。テレビドラマの歴史に明るいほうではないけれども、公務員を主人公にしてその職務自体を物語の中心に据えたドラマなどというものは、これまでに覚えがなく、映画では生きるにおいて中心に置かれていた役所の姿が印象深く残っているものの、かの作品も物語の主題そのものが“行政”にあるわけではなかった。今回の二つのドラマは共に、ダイレクトに行政そのものに主題を置き、しかも戦後から高度成長期の中央官庁と財政赤字に苦しむ現代の地方自治体という形で、相補的に行政に目を向けていた。視聴率の程は知らないけれども、けっこう注目されていた印象があって、些か驚いている。

 この五十年くらいを生きてきた自分の印象からすると、'60年代の世界的な政治の季節に若者たちが麻疹に罹ったように政治化したことに恐れをなした政府が、文部省を通じて教育の場において政治というものを徹底的にタブー化したことによって、メディアの側でも政治的であることをダサいなり、野暮でかっこ悪いことのように感じさせる時代感覚を“三無主義”とか“四無主義”と名付けて若者に流行させ、信条としてのノンポリとは似ても似つかぬ空白を'70年代から長らく植えつけてきていたものが、小泉劇場以降ようやく変わり始めて来ているのかもしれないという気がしている。

 政治というものが、その統治下にある個々人にとって「そんなの関係ない」で済ませられるものでは決してないことは、古今東西の歴史の語る真実なのに、なぜか我が国では、関係なく済ませられるものだという幻想を国民に植え付け、イデオロギーとしては“拝金主義”に収斂させることに成功してきたのだが、米軍占領政策のなかでも最も重要且つ画期的な社会実験だったと僕が思っているシャウプ税制を、マネーゲームによる金満家の輩出を見たバブル期以降に劇的に改変させてアメリカ型格差社会への航路に舵を切ったことで、一億総中流を生み出した戦後日本の社会体制がソヴィエトの崩壊並みに変転して今に至っている気がする。

 今回ちょうど民主党への政権交代が成って最初の市民映画会の二本立てが、『シリアの花嫁』と『英国王給仕人に乾杯!』になっているところに、単なる偶然とは思えない“時代性”というものを感じないではいられなかった。どちらもともに、個人の生が政治に翻弄されるものであることを、そして、その作用の及ぼし方というものが決してイデオロギッシュに論理的なものではなく、滑稽なまでに人間的で、何とも不可解な見えざる手のようにして強いとも弱いとも知れず絡まってくるものであることを、鮮やかに描き出していたように思う。


 『シリアの花嫁』では、ゴラン高原の村にシリア領時代から住むイスラム教徒の住民が、'67年からのイスラエルによる占領後その支配下に置かれ、シリア国籍を剥奪されながらもイスラエル国籍は付与されない無国籍者として、シリアとの境界線によって肉親とも行き来のできない分断状態に置かれていた。この作品は'04年のものだから、四十年もの間その状態が放置されているわけだ。シリアに住む男との結婚により“境界線”を越えることになった花嫁モナ(クララ・フーリ)との今生の別れを前にした宴にロシアや欧州から駆けつける家族の悲喜こもごもに、政治事情や親子の葛藤を描き込んだ上々の人間ドラマだったが、とりわけ感心したのがエンディングだった。

 従前は越境に際してイスラエル側の出国印を押していなかった取り扱いが、現場調整もないままに変更されて押印がされるようになっただけで、個人各人の事情としては何ら従前と違いのない通行案件が不許可になってしまう“公務の形式主義”とその可否に対する“権限と責任の所在の不明確さ”、気分次第とさえ言えかねない“裁量任せ”でもある様子が的確に描き出されていたように思う。そして、今生の別れという、個人にとっても家族にとっても人生の一大事とも言うべき出来事を、その重みとは全然見合わないぞんざいさのなかで左右してしまうところが、公務につきものの不均衡感だと改めて思った。だが、そんなあやふやで不確かなものというのは、皆が従うからこそのものであって、それを無視して行動化してみれば、無力な個人の振る舞いであっても、また、銃器の力を背景に緊張が醸し出されている越境問題でさえあっても、拍子抜けするほど易々と突破できてしまう様子というものを印象づけていた。手続きを取ろうとするから、いつまでも下りない許可に対し、花嫁衣裳のまま、モナが通行証も持たずに通り過ぎようとすると、兵士の誰も止めたりしなかったのが痛烈だ。

 公務に携わる人々のなかに最も顕著に見られる傾向の一つが、自身による判断を下すことの回避であり、他方で見られる横暴とも思えるような公権力の行使の場面とは全くそぐわない不均衡感と共に印象づけられることが多いように思う。モナが越境すること自体の是非よりも遥かに重大なのが、越境許可を与えることの可否なのだが、その感覚は公務に携わらない者には、とうてい理解しがたい代物だ。両国の出入国管理に携わる者の間を仲介して解決策を見出そうとする国連職員の徒労と苛立ちが効いていて、加えて、彼らが日頃からの顔馴染みでモナの結婚という案件それ自体には、何の思惑も害意もなく、むしろ平均的な祝福感を備えていることが窺えるなかで起こっている事態であるところに、制度や政治というものの非人間性というか、血の通いのなさが、呆ける形で浮かび上がっていたような気がする。随所にユーモアとペーソスが込められた秀作で、モナの姉アマルを演じたヒアム・アッバスが魅力的だった。


 『英国王給仕人に乾杯!』は、その『シリアの花嫁』以上にユーモアと風刺に富み、知的刺激にも満ちた創造性豊かな作品だった。英国王に給仕したと誇るプラハの高級ホテル「ホテル・パリ」の給仕長スクシーヴァネク(マルチン・フバ)からいつも頭をはたかれていた小男のヤン・ジーチェ(イヴァン・バルネフ)の背丈の低さこそは小国チェコの国勢を示し、童顔の子供っぽさこそは国民の政治意識の未熟さを示していたような気がする。

 ハプスブルグ家が治めていた時代の名残を留めた退廃的な貴族的浪費を目の当たりにしていた時代から、ナチスの侵攻を受け、社会構造が激変する時代を経て、戦後の解放によるナチスの駆逐から共産主義体制へと向かった半世紀を政治とは遠いところから、ただ一貫して百万長者になって高級ホテルのオーナーになることを夢見ていた給仕ジーチェの姿を通して描いていた。彼は、社会があれほどの政治的変転に見舞われていても、何ら政治化することなく、その憧れ望むものはひたすら金と女と贅沢で、しかもそれを自己実現の目標として意志的に戦略的に取り組むわけではなく、生き方としては、至って成り行き任せで、出過ぎることも引っ込むこともなく、せこい小競り合いを重ねつつ、地味に給仕の仕事を続けていた。それは、まさしく庶民の生き方そのものだったように思う。

 その生き方に対して肯定も否定もせずに、そういう視座とは異なるある種の“浮遊感”とともに描いたタッチが絶妙で、思慮なき庶民が政治に翻弄され、運不運に流され生きていくさまの滑稽と哀れを伴った軽妙な味わいに心惹かれた。なかなかこのようには撮れないものだという気がする。

 そのなかにあって、あくまで脇役としてしか登場させなかった給仕長の台詞を作品タイトルにすることで、彼の存在に更なる視線の引き寄せを施していたのは、なかなか洒落た仕掛けだと思う。演じたマルチン・フバの力に負うところも大きいが、観終えた後、僕は、給仕長の放っていた異彩について思いを巡らさずにはいられなかった。考えてみれば、彼こそは、この作品の登場人物のなかで唯一“矜持”なるものを備えた存在だったような気がする。同じ給仕という仕事についていながら、何もかもがジーチェとは対照的で、小男のジーチェに対しスクシーヴァネクは堂々たる押し出しで、その給仕長たる位置も実力であって、ときにジーチェが彼を凌いだ脚光を浴びることがあっても、ジーチェのそれはたまたまの幸運でしかなかったような気がする。ナチスに抵抗し政治的にも活動していたらしい給仕長に比べ、ナチス以前のチェコにおいて少数民族として扱われていたドイツ系女性のリーザ(ユリア・イェンチ)へのジーチェの恋には、民族問題は何らの影響も及ぼしているふうではなく、小男の自分より小柄であったからという程度のものでしかなかったように思う。そして、彼女との結婚がジーチェのその後を大きく左右したさまには、チェコの歴史が被せられていたようにも感じた。

 帰宅後、宣材のチラシを読むと、「ジーチェ」というのは“子供”という意味であることが記されていて、わが意を得たような気がした。訳もなくふんだんに美女の裸体が登場することに限らず、視覚的にも豊かな刺激に満ちており、十八年前に観たチェコ映画『ひなぎく』を思い出すようなアナキズムとファンタジックな象徴性に富んでいて、『ひなぎく』より遥かに魅力的で、またいつか再見してみたい作品だった。



推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2008ecinemaindex.html#anchor001797
by ヤマ

'09. 9.16. かるぽーと大ホール



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