『7月24日通りのクリスマス』
監督 村上正典


 友人が教えてくれたサイトでの見立てによると、僕はインプットが左脳でアウトプットが右脳の“さう男”なのだそうだ。その所見による人物像は「状況を客観的かつ正確に把握して結論を出した上で、相手の感情に響くやり方で訴えかけます。ものごとを裏の裏の意味まで探って分析し、相手の状況を見切った上で言葉巧みに誘導するコミュニケーション能力の高い策士です。冷静にバランスよく納得しやすい解決を導き出すことで、人に意見を求められることが多く、一目置かれる存在です。人当りはソフトですが、つねに適度な距離を見定めた大人のつきあいをします。その距離感をドライで冷たいと感じる人もいるでしょう。人間関係に角を立てることが嫌いで、イザコザが起こったりすると両方の顔をうまく立てて丸くことをおさめるのが上手。ある意味小心者でもあります。自分の趣味や目的の達成のためには努力を惜しまず研究熱心なので、物知りで頭がいい印象を与えます。オタクの素質も備えています。ムダな努力もしない効率主義者なので、無理と感じたらあきらめも早く、無難な線で決着をつけようとします。それを物足りないと感じる相手もいるでしょう。」となっていた。何人かでやってみたなかで別な友人が、僕のが一番当たっていると笑っていたのだが、“ムダな努力もしない効率主義者”以下の部分は確かに自分でも思い当たるフシがあって、僕は成り行き任せに事を預けがちで、自ら動くことをあまりしない。
 格別に諦めとも断念とも思わずに“縁”のように捉えているから、さしてストレスにもならないし、むしろそのほうが万事うまくいくような気がしているのだが、この映画のなかで、恋に臆病で自信のない本田サユリ(中谷美紀)が「間違ったっていいじゃない!」と叫ぶ姿を見せられると、自分のそういう感覚を敗北主義だとは思えないものの、少々脅かされる部分があるようにも感じた。これは、名うてのイケ面モテ男の弟耕治(阿部力)との結婚を躊躇する風采の上がらない神林メグミ(上野樹里)への後押しとして発せられた言葉だけれども、奥田聡史(大沢たかお)への六年越しの憧れに手を伸ばしてみようとすることへの彼女自身の勇気を鼓舞する言葉でもあったわけだ。
 実際的な感覚としては、常にサユリの傍にいて彼女に寄り添い見守ってきた幼馴染みの森山芳男(佐藤隆太)の言うことが当を得ていると思うし、先の“間違い”との対で言えば“正しい”とも思うのだが、芳男の言う「きちんと目の前の現実に向き合い、長崎西通りをリスボンの7月24日通りだと夢想して生きることからの脱却」を果たさずに、六年間サユリのなかの王子様ランキングのトップを独走してきた聡史とのゴールインを掴み取るこの映画のハッピーエンディングを罪作りだとは思いながらも、妙に支持したくなるような納得感に見舞われたところが、我ながら面白かった。映画のなかでも芳男が言うように、近頃は王子様とのゴールインでハッピーエンドとなるのは流行らなくって、ずっと傍にいてくれた存在の値打ちに目を開くことができるようになることがハッピーエンドであるという趣向のほうが王道と化した感があるからこそ、逆を突かれて新鮮だったのかもしれない。だが、一番の功績は、やはり中谷美紀の好演だという気がする。
 嫌われ松子の一生のときのような過剰さではなく、ラブコメ的な味わいをうまく出していて、壬生義士伝力道山で見せた演技との対照が際立っていた。上野樹里に風采の上がらない女性を演じさせていた点では『虹の女神』に通じるところを感じたが、『虹の女神』での彼女が、役処としてはそういうものをあてがわれていながらも、ちっとも風采が上がらないようには見えず、むしろ市原隼人の演じた智也のほうにずっとそんな感じがしていたので、それからすれば、メグミはかなりうまく演じられていたから、村上正典監督の演出手腕が作用しているのかもしれない。思えば、登場人物のいずれもにおいても役者の個性が巧く活かされていたような気がする。「ガンバ〜レ、サユ〜リ! オマエナラヤレル〜サ」と折々に登場して励ましていた同伴する二人の守護天使のイメージは、あまり効果的には思えず、蛇足のように感じられたけれども。
by ヤマ

'06.11.20. TOHOシネマズ8



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