『日本国憲法』
監督 ジャン・ユンカーマン


 二年ほど前に観たチョムスキー 9.11 Power and Terrorの印象からしても、題材が時宜に適いカメラを向ける意義深さに富んでいるものの、映画としての見せ方や彫り込みには、そう多くの期待が寄せられないことを予め承知していた。でも、「憲法の成立過程や、現在の改憲論議が諸外国の知識人らにどう映っているかをインタビュー構成で描く」作品だと前に新聞で報じられていたのを読んで、作り手の選んだ「諸外国の知識人」というのが、どういう国々に渡っているのだろうという興味が湧いていた。だから、憲法記念日に高知での上映会があることを当日の新聞でたまたま知って、やおら会場に足を運んだ。行ってみると、平和憲法ネットワーク高知が主催する“5.3 憲法集会「どいたち守ろう9条を!」”という催しでの上映だった。主催者の話では、見込んでいた以上の数の人が集まって驚いているとのことだったが、思いのほか一般参加という形で観に来た僕のような人が多かったようだ。マスコミでは、憲法改正支持が国民の半数を超えたとか7割に達したとかいう報道がされているが、その一方で、世情のそういう動きに気持ちの悪さを感じている人々が少なからずいて、主催者が見込んだ数以上の人々を集めるような事態が生じているのだろう。

 日米を拠点に活動しているらしき監督の選んだ12人のインタビュー相手で目を引いたのは、レバノンのジョゼーフ・サマーハ、シリアのミシャール・キーロ、中国の班忠義、韓国のシン・ヘス、カン・マンギル、ハン・ホングだった。半数が中東を含め、アジアの国々であったことに感心するとともに、東アジアに偏らせていなかったところが気に入った。とりわけ印象深かったのは、日本国憲法9条を巡る国際平和と安定というのは、一に懸かって“東アジアの誇りの問題”だと訴えていたカン・マンギルの発言だった。

 僕は、それを市民の誇りが問われているのだというふうに受け取った。日本・中国・北朝鮮・韓国、いずれの国々でも、困難さの増す内政課題に対する国民の目を逸らせるための愚劣で姑息な大衆操作的な装置として、外患を煽り立てることでの愛国心や民族主義の称揚がおこなわれてきているわけで、それによって過熱気味の摩擦や示威行動が目立つようになってきた。どこの政府もがその現状に危惧を寄せつつ、他国の挑発的行動にのみ責を求め、自らに非はないと言い立て合っているから、ますますヒートアップしてきているように見える。

 だからこそ、いま問われている市民の誇りというのは、これら一連の事々が誰の仕掛けによって何のために行われているのかを“見抜く力”と、相互非難がエスカレートしていく先にいかなる事態が生じる可能性が高くなるかを“想像する力”を備えた市民であるかどうかということだと思う。政府の目くらましに乗せられないことが、民度の誇りをかけて問われているというわけだ。日本国憲法の改訂が日本一国の問題ではなく、東アジアの問題であり、さらには軍備の問題ではなく、誇りの問題であるとした彼の発言に僕は大いに共感を覚えた。殊に日本の現政権が、9条の問題に対して、日米同盟との関係のみに重きを置いた形で課題意識を持っていることに、余りにも複眼性を欠いた単純さと脳天気さを感じ、危なっかしくて仕方がないとの想いをかねてから抱いていただけに、“東アジアの誇りの問題”という捉え方に僕が強く反応したのだと感じている。

 それにしても、確かアメリカの歴史家ジョン・ダワーの発言だったと思うが、アメリカ人に日本のアメリカ追従を勇気のなさとして指摘されるのは、何とも情けないというか、それこそ愛国賞揚者たちの好む言葉たる“国としての誇り”が傷む話ではないかと些か苦笑を禁じ得なかった。そもそも、国家主義的な改憲論者が、現行憲法を“押しつけ”というイメージで非難することには論理的なすり替えがある気がしてならない。

 日本国憲法が国民の立場から国家権力に規制を加える内容を持っていて、国家主義者にとって押しつけがましく感じられるのは当然だろうけれども、それは“国民の側から国家権力に規制を加える民主憲法”の本旨そのものであって、マッカーサーが押しつけたことから生じるものではないのに、論理的にすり替えて世論誘導を図ってきたように思われて仕方がない。“自主憲法”などという耳当たりだけよくて定義不明のキャッチ的な言葉で幻惑を試みているわけだが、半世紀以上という他国に例を見ないくらいの長きに渡って改憲をせず、アメリカの要請をも拒んで自主的に維持してきた現憲法を“自主憲法”と呼ばないのなら、何を以て自主憲法と言うのだろうとかねがね思ってきたところだ。

 映画のなかで幾人ものアメリカ人が日本国憲法の9条の意義を語るのを観て、国家の問題を国対国の構図で捉えることの誤りを改めて痛感せずにはいられない気持ちになった。国家の問題というものは、やはり国家対市民の構図で捉えるべき問題なのだと思う。それを国対国という土俵に置き換えることで目を逸らす意図が働いていることに数多くの人が気づかなければ、国々を超えて大量の市民が傷み、ないがしろにされる状況が訪れるのだろうという気がする。

 久しぶりに二十年近く前に綴ったプラトーンの映画日誌を読み返してみた。「アメリカに限らぬ、エスタブリッシュメントの持つ権力の傲慢さと醜怪さ」と当時綴った部分が、荒っぽさと巧妙さを加えて当時とは比較にならないほど顕著になってきている日本の現況に些か気が滅入ってきた。

by ヤマ

'05. 5. 3. 県市町村職員共済会館



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