『やさしくキスをして』(Ae Fond Kiss...)
監督 ケン・ローチ


 いつもながらケン・ローチのまなざしは、実にニュートラルで大きく温かい。若い二人の恋を熱っぽく美しく飾り立てることも、若者たちの重大な意思決定を受容できない親たちを頑迷なだけの人物に仕立てて対立軸を煽ることもせず、それぞれの至らなさと普遍的とも言える親子のギャップを綴って、人生の哀しみと希望を慎ましく描いていた。

 僕がもっと若ければ、子供の進学や結婚を親の想いで決めるのが当然だと思っている理不尽さに対して、子供たちの側に身を置きやすかったのだろうが、我が子三人のうち二人が既に成人を迎えているなかでは、むしろ親というものが子供たちに抗われる宿命にあることの哀しみについて、ある種の覚悟を迫られるような味わいがあった。だが、肝心なのは、それが肯定的なものとして描かれていることだ。親の心情に引きずられつつも抗い、親の価値観を超克しようとすることで、新しい世界を築いていくのが子供の成長であり、自立であるということをむしろ“次世代の果たすべき役割”として描いていたような気がする。そして、そのことが共感できる形で観ている側に伝わってくるからこそ、そういう親の哀しみを引き受けることがまさに親たるものの甲斐なのだと囁き、慰めてくれているような味わいが残るのだろう。

 そのうえでは、人種と宗教を越えて恋に落ちたカシム(アッタ・ヤクブ)とロシーン(エヴァ・バーシッスル)以上に、カシムの妹タハラの存在が効いている。自分の通う高校の敬愛する音楽教師ロシーンと優しい兄の恋に対する両親の悲嘆について、その両者の側の想いを酌める立場で見届けつつ、両者の至らなさと切実さを直に目撃しながら、自分の人生を切り開いていこうとするタハラの姿が、眩しく爽やかだった。自分がグラスゴーに住むタハラという名の女子高生として見られることよりも、パキスタン移民二世でイスラム教徒だという目で見られるほうが多いことへの異議申し立てを映画の冒頭で雄弁に語っていたが、個人を個人のキャラクターではなく属性で見がちなのは、人間社会のどこにでもありがちなことだ。人種・宗教・年齢・性別・職業・居住地などというのは、いずれも個人的なキャラクターではなく属性に過ぎないが、パーソナリティというのは、その属性もキャラクターも含めて構成されるものなのだから、キャラクターという心の部分で人間を観ることができにくいのもまた道理だったりするのが人間なのだろう。僕自身のなかでは未だに“属性に頼りがちな世間知”に対する反発が根強く働いていて、ちょっと青臭いところが残っているのだが、自分では意識的に保ってきたつもりなのに、かつてに比べるといつの間にか色褪せてきている気がしてならない。また、心のなかでも恋情などというものは取り分け移ろいやすく、キャラクター以上に人生を委ねるには心許なく思われるから、最も手堅そうに見える属性に頼りがちなのは、親の世間知として止みがたいものだとも思う。しかし、それを越えてみようとする若者の挑戦をやはり上の世代は受容すべきだし、拒んでみたところで逃れようもないわけだ。

 そうは言っても、カシムの腰の据わらない頼りなさとか「いい人だったけど、相性が…」ということでの離婚歴を持つロシーンの与える心許なさとかいうのは、彼らが挑もうとしていることの厄介さに比して、親ならぬ観客として観ていてさえ、いかにも危うげに映るのだが、不用意にロシーンを傷つけてしまうカシムの無骨さにしても、自分の想いと価値観ばかりを主張するロシーンの自己中心的な感覚にしても、それ自体は若者に限らないことながら、自分で手一杯な若年時にいかにも顕著な“相手への想像力の及ばなさ”として、とてもリアリティのある筆致で捉えられており、流石だ。しかも、親の世代の想像の埒外にある世界への踏み出しを若気の至りのようにして進むなかで、心許ない二人に確かな成長と自覚の育みが宿っていっていることが、格別劇的なエピソードを設える形ではなくて綴られているのだから、見事だ。

 宗教に対する視線も公平で、カトリックの教区長をきちんと登場させてロシーンの正規採用の道が閉ざされる様子が描かれていた。宗教的戒律というものが個人的自由の抑圧を神の名の下に図るのは、何もイスラム教だけの問題ではない。宗教的戒律自体がそもそも人権的見地に立つものではないことを提示し、両者の違いは、伝統を文化として継承する人の数の多寡の問題でしかないことを示してもいた。いかに旧態然としていても制度として残されていれば、肉親ではなく赤の他人が一方的に人生を左右するという点で、カシムの家で起こっていたイスラム文化の問題以上の理不尽さで、神の名の下に人権侵害とも言うべきことを行うのはむしろ“西洋文明社会”のほうであり、心ある校長の力さえ及ばないことが指摘されていたわけだ。

 こういう公平感に包まれた眼差しでイスラムの親子が描かれていたことが、僕が「親の哀しみを引き受けることがまさに親たるものの甲斐なのだと囁き、慰めてくれているような味わい」を覚えたイチバンの理由であって、単に僕の加齢によるものではないような気がする。

 それにしても、二人の恋の始まりを印象づけた場面は素敵だった。音楽の好きなクラブDJで自分の店を持つのが夢のカシムが、ロシーンの演奏する機知と感情に富んだピアノの音が窓から聞こえてき、思わず足を止めて聴き入った後、指笛を吹いて窓辺に呼んだのだったように思うが、彼女の才気煥発な変奏の連打にカシムが特別に魅せられたこの場面が僕は大いに気に入った。これは、彼が音楽に対するセンスと機知の問われるクラブDJなればこそのことでもあるわけで、また、非常勤ながら優秀な音楽教師であるロシーンにとっても、この演奏を介在させた交感の喜びには格別なものがあったことだろう。そのうえでのセックスの相性のよさだったからこそ、「あなたと私の“相性”は完璧だと思うわ」との言葉が彼女の口から出ていたのだろうなという気がする。無論それで“相性”の全てをカバーできるものではないはずなのだが、ロシーンにとっては、そこのところが最も重要だったわけで、さればこそ、別れても再びヨリを戻して、二人で歩みを始めたのだろう。

 彼らのこの後には、四年前に観た『ぼくの国、パパの国』(ダミアン・オドネル監督)にも描かれていた、パキスタン人の父親とイギリス人の母親の元で生まれた子供たちのような親子問題が、遠からず見舞うことになるのだろうが、その姿もまたケン・ローチ作品で是非とも観てみたいものだと思った。
by ヤマ

'05.10.25. 美術館ホール



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