『堕天使のパスポート』(Dirty Pretty Things)
監督 スティーヴン・フリアーズ


 イギリスでの滞在条件が三種類に異なる入国者の登場していた作品だ。滞在自体が不法である密入国者たるナイジェリア人医師オクウェ(キウェテル・イジョフォー)、滞在は認められているものの就労許可が得られていないトルコ移民の女性シェナイ(オドレイ・トトゥ)、難民認定を受けて就労も認められている中国人医師グォイ(ベネディクト・ウォン)の三人だ。

 言うまでもなく、最も過酷な境遇にあるのはオクウェで、闇タクシーの運転手とパート夜勤専門のホテルマンをしながら、不法滞在ゆえに住居も借りられないままに地下生活を続けざるを得ない状態だった。なかでは一番ましな境遇にあって一応病院に雇われているのがグォイだが、自身の医師としての力を充分には活かせない境遇に対し、能力に見合った仕事をしたいと零し、技術者の誇りが傷ついている現況を嘆いていた。優秀な医師であればこそ、その不本意はもっともな話で、難民労働者であるがために受けているであろう不利益・不遇がひとかたならぬものであることを窺わせていた。それだけに彼と同等以上に優秀な医師であることが窺えながら、医業にも就けず底辺労働に従事するしかないオクウェの苦境のほどが強く印象づけられるわけで、巧みな対置だ。だが、最も過酷な境遇にありながら最も矜持を保ち続け、貧しても決して貪しない高潔でタフな人格を体現しているのもまた、オクウェだった。だからこそ、グォイはオクウェに敬意を抱き、自分にできる限りの助力を惜しまなかったのだろう。オクウェは、グォイにとって親しく交わることで自身の内の腐っていきがちな気持ちに歯止めを掛けてくれる大事な防波堤のような存在でもあったはずだ。

 原題の“Dirty Pretty Things”が指すのは、自分に救いの手を差し伸べ匿ったことで、取締当局にマークされて職場を追われ、過酷さの増した状況のなかで辛酸を舐め、凌辱に甘んじてまでも渡米を果たそうとしていたシェナイの命を守り救うための美しい行為として、臓器売買のために健康体から腎臓摘出をする闇手術という“医師にとっては最もダーティな施術に手を染めたオクウェの行為”のことだろうが、どんな境遇でどんな職に就こうとも誠実できちんとした仕事ぶりと品位ある人格を崩すことがなく、娼婦ジュリエット(ソフィ・オコネドー)に天使のような人と呼ばれた彼がシェナイの求めるパスポートのために手を汚したのだから、『堕天使のパスポート』という邦題もなかなかのものだという気がする。

 シェナイを演じていたオドレイ・トトゥは、無垢さをキー・キャラクターとしている女優とのイメージが僕にはあるが、彼女が人気を博した『アメリ』でも、『アメリ』と同じ監督脚本作の『ロング・エンゲージメント』でも、その妙に浮世離れした存在感に親しみを覚えられず、世間での人気ぶりに違和感を覚えていた。監督や脚本の異なる本作で彼女の演じた役どころもまた、“無垢さ”というものがキャラクターの重要な部分を負っているのだが、本作では浮世離れした感じはなく、地に足の着いた天使といった風情で、僕にはこれまでに観た三作のなかで最も好もしく映った。大きな目で真っ直ぐに向ける視線の醸し出す清冽さが、悲惨に追い遣られてもオクウェを恨みも裏切りもしないシェナイの魂の無垢さによく見合っているように感じた。

 だが、何と言っても印象深いのはオクウェのほうの汚れなさだった。それは無垢さのような天賦を感じさせるものではなく、強固な意志と自制によって保たれているものに見受けられたから、より眩しく輝いていたのだと思う。そのことに説得力を持たせることのできたキウェテル・イジョフォーは大したものだ。そして、かくも厳しい状況にあってなお彼に魂の汚れをはねつけさせ得たものが何だったのかということに思いを馳せていると、彼の口から娘の話が出てきたのだった。そこで初めて得心がいくとともに、コールド・マウンテンを観て思ったような“希望”の力の大きさを改めて感じた。今現在のみしか視野に置けない状態ではとても保ち続けられそうにもない矜持を支えていたのが“娘との再会の時”という希望であり、そのときに顔向けできない自分ではありたくないとの想いの強さだったのだろう。『コールド・マウンテン』のインマンとエイダもそうだった。

 それにしても、金が幅を利かす人の世というものは、無情にも弱者をとことん虐げ、食い物にするものであることを見せつける映画だったようにも思える。そして、そのことが最も端的に現れているのが、臓器売買という現象であることを強く印象づけられたような気がする。臓器移植によって掛け替えのない命を長らえることができるようになったのは、確かに医学の進歩なのだろうけれど、その技術が開かれたことで、法律で売買を禁じても闇市場を必ず生み出してしまうのが人間社会の哀しい現実だ。富者の命を長らえるために貧者の命を縮める搾取技術として開発されたわけでは決してなかったはずのものが、現実的にはこういう形で横行するのであれば、それ自体を考え直さなければならないとまで思えてくる。核にしても銃にしてもそうだが、人間は、自らの開発した技術でいつも自らに不幸を招いているような気がしてならない。功以上に罪が目立ってくるように思えた。



推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_08_30_2.html
by ヤマ

'05. 5.22. 県立美術館ホール



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