『ビッグ・フィッシュ』(Big Fish)
監督 ティム・バートン


 先頃観たばかりのウォルター少年と、夏の休日のウォルターが、ハブ爺さんの言う“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”を、ガース爺さんの話と二人の爺さんの人となりから学んだのと対照的に、ありのままの事実ではないことに囚われて父親の話が信じられない故に、そこに潜む真実や語りの価値になかなか気づくことができなかった息子の父子物語だ。話の誇張や潤色ぶりはどっちも似たようなものなのだが、ガース爺さんの話が冒険活劇なのに対して、エドワード(アルバート・フィニー&ユアン・マクレガー)の話はファンタジーだから余計に素直には信じにくい面がある。だが、それ以上に父子という近さがウィル(ビリー・クラダップ)に父エドワードへの苛立ちを促したのだろうと思う。ウォルターにとっては、語り手が母方の大叔父だったのが幸いだったわけだ。

 思うにウィルは、幼い頃、旅先から戻ってきて面白可笑しく話してくれる父の語りをマトモに信じていた時期があって、友人たちに得意気に話してコテンパンに莫迦にされ、大いに傷ついたことがあったのではないかという気がする。そのとき父を少なからず恨めしく思い、不在にしていることにも腹を立てたに違いない。それでも、そんなことにはお構いなしで、相変わらず荒唐無稽な同じ話を繰り返し続けていることに憤りを覚えていたのだろう。単に聞き飽きているからでは済まないものがウィルには感じられた。彼がファンタジーとは対極にあるジャーナリストを職に選んだのも、そういう父への反発に他ならないような気がする。父子関係なればこそ、こういう捻れが生じるのであって、息子のウィル以外の誰もがエドワードの話を面白がり、彼の人となりに魅せられる。となれば、馴染めない息子は余計に頑なになるとしたものだ。妻のジョセフィーン(マリオン・コティヤール)さえもウィルの胸中に気づかず、父エドワードの話に夢中になるものだから、ますます面白くないわけだ。

 そんなウィルが父の話に対して異なった観方ができるようになる契機が、父の話に出てきた町が実在するかもしれないと思わせる土地の証書を見つけて、町長の娘ジェニファー・ヒル(ヘレナ・ボナム=カーター)を訪ね、若かりし頃の父の話を“取材”することからだったのが実に面白い。ウォルターにとっては“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること”なのが、ウィルにとっては“必ずしも嘘ではないかもしれない故に価値のある、信じられないほどの面白さ”となるわけだ。初めて父の語りの紡ぎ出す力と彼自身の本当の価値に気づくようになる息子ウィルが、その死の床に間に合って、父エドワードのお株を奪うような見事な語りを聞かせる場面が実に素敵だ。あれほどに幸福な終末を迎えられる父親というものも、そうそうあるものではなかろう。しかも、ウィルの語ったファンタジックな父の末期の物語が、全くのホラ話とは言えなくなるような最後がきちんと用意されているのがまた素敵だ。人の“語り”というのは、きっとそういうものなのだろう。口の端にのぼる真摯なる思いに支えられた言葉には、必ず何らかの真実が宿っているとしたものだ。作り手の思いは、まさしくそこにあったのではないかという気がする。

 それにしても、見せる技の巧みさと鮮やかさは、流石とも言うべきティム・バートンの作品だった。絵的には特にファンタジーが目立った場面ではないが、僕は、死期の迫ったエドワードが水気を求めてバスタブに横たわるところに妻サンドラ(ジェシカ・ラング)が着衣のまま潜り込んで寄り添うシーンがとても気に入った。あの美しい裸の水の精は紛れもなくサンドラで、エドワードはビッグ・フィッシュに他ならないことが実にファンタジックに浮かび上がってきて、なかなか味わいがあった。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040523
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_06_07_2.html
by ヤマ

'04. 8.22. 美術館ホール



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