『折り梅』
監督 松井 久子


 原作[小菅もと子]も、製作・監督[松井久子]も、脚本[松井久子・白鳥あかね]も、みんな女性で、主演の二人も女性。アルツハイマー型痴呆の始まった義母との関わりに悩む巴(原田美枝子)が夫と訪ねるグループホームの主宰者も女性なら、老いた政子(吉行和子)が通うデイケア・ボランティアの主宰者(加藤登紀子)も、絵画教室の主宰者(りりぃ) も女性。巴を精神的にサポートするパート仲間も総て女性という、男性の影のとてつもなく薄いドラマであった。しかし、介護の実際というのは、まさしくそういうものなのだろう。巴の夫で政子の三男である裕三の役に、演技者としては稚拙さの目立つトミーズ雅をあてがっているところに、何か皮肉な意図さえ勘繰れなくはないほどに女性ばかりでもっている世界だった。

 初期のアルツハイマー型痴呆症が家族にとって厄介なのは、それが病気だとの認識はあっても、正気状態と痴呆の発現とを区別して、うまく受け止められないところにあることは、これまでに観てもきた映画などから知らないわけではないが、いかにもストレスフルであることがよく判る。物理的な介護面では、もっと痴呆が進んだほうが大変だろうが、精神的にはむしろ、正気と痴呆を行ったり来たりする状態やら、老人が自身の痴呆症を受け入れ難くて転嫁する、自衛のための攻撃性や不安による猜疑心に晒されることのほうが、苛まれるようで応えるのかもしれない。総てを痴呆状態として対処することは無論できないだろうし、それは相手にとっても耐え難いことだろう。だが、正気としては隠されていた本心が痴呆によって現れてきたと受け取ると、どうにも辛く腹立たしいことが実の親子でもあるわけだから、嫁姑の関係だと尚更だ。

 巴がそれを乗り越え得たのは、実に奇跡的なことのようにも思えるのだが、絵空の綺麗事でもないように感じられたのは、作品の力だろう。そこには、政子が本当に芯から巴を頼りにしていることが伝わって行った過程が納得できる形で描かれていることが大きく意味を持っている。実の子供にも語ったことのない幼時の記憶や当時の心中を嫁である自分に語り、夜伽の添い寝を求めた姑が、幼時に満たされなかった母親への想いというものを、眠りながら自分の乳房をまさぐってくる手に感じたとき、巴のなかで確かな実感が生まれたのだろう。女性の乳房には、本当に底知れぬ力があるものだと改めて思った。乳房で感じ取った実感だからこそ信じられるという作品を女性づくめで作られた映画として見せられるのだから、異議の唱えようがない説得力だ。しかし、現実問題としては、こういう実感の交換を果たすに至ることこそが奇跡的なのだろう。巴と政子の場合は、無論それぞれの資質と蓄積もあろうが、幸運に恵まれたようにも見えた。だからこそ、観ていて了解しやすかったようにも思う。

 人間というものは不思議なもので、見知らぬ相手だとちょっと踏まれただけでも、足が本当に痛みを感じるし、心の通い合う相手だと叩かれても痛みどころか喜びを感じることさえあるものだ。相手の行為を不快に感じたり許容できたりすることの違いは、その行為自体にあるのではなく、相手との関係性にあるし、その関係性とはとどのつまりが心の通いの実感ということなのだ。そして、その実感を取り戻しさえすれば、折り梅に花が咲くように、しぶとい生命の輝きを再生させることができるというのが人間に備わっている希望というものなのだろう。

 それにしても、エンドロールを眺めていたら、映画に出てきた政子の絵が実際にマサ子さんからの提供によるものだと判り、とりわけラストショットの“光の中で交錯する二つの梅の木の絵”に感じられた、確かに七十歳になるまで絵に親しむことがなかったとは思えないほどの達者さと同時に備わっていた、さもあらんという瑞々しさが、改めて甦ってきた。見事なものだ。


参照テクスト:めだかさんとの往復書簡編集採録

推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/oriume.html

by ヤマ

'03. 2.16. ふくし交流プラザ



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