『サトラレ』(Tribute to a Sad Genius)
監督 本広 克行


 内心の呟きが総て悟られてしまう特殊能力者だからといって、いくら何でも「サトラレ」とは、いかにも洗練されない呼称だが、ある意味でこれほど判りやすい呼び名もなく、それが題名になっていることが実にふさわしいとも言える作品だ。題名のみならず、演出もカメラも展開もいかにも洗練されていない。しかし、これをもってわざとらしいとか、クサいとか評するのは、どこかピントがずれているような気がする。というのも、それはそのとおりだったとしても、作り手はそれをはなから承知のうえで、確信犯としてやっているし、こういう作品には、却ってこんな手法がマッチしているのかもしれないとさえ思わせるのだ。
 大仰なカメラワークで思い入れたっぷりに、回ったり、舐めるように流れたり、持ち上がったりするのは、よほどの場面でなければ今やもう恥ずかしいとしか言えないような気がするのに、この映画ではふんだんに出てくるし、何度も繰り返される。人物の陰影には乏しく、ある種の決め言葉が台詞として浮き上がりかねない形で多用される。展開の強引さに到っては、荒唐無稽な設定をも上回るような不自然さが常に付きまとい、何故どうしてを問い始めれば、きりがない。
 それでもこの作品がダメな作品どころか、むしろいい作品だと思えるのは、もちろん単に人の善意というものが溢れていて、気持ちのいい映画になっているからだけではない。結局のところ、手法が作品に見合っていることがポイントになっているのではなかろうか。前半の荒唐無稽さは尋常のものではなく、いささか虚を突かれた形だ。それを大仰に、妙に細かいところを拘りながら根底は随分荒っぽく綴っていくことで、逆に観ている側にすんなりと受け入れさせてくれたように思う。そういう意味で前述の手法がむしろ効果的に働いているという気がするのだ。けっこう笑い、楽しませてもらった。
 そのおかげで、こういう、人の善意というものにある種楽天的な映画なのに、どこかシラけたおめでたさを感じさせたり、変に説教臭を漂わせたりせずに、ある種の感動をもたらすのだから、かなり大したものだと言えまいか。それには多分に役者のキャラクターが大きな役割を果たしていて、とりわけ八千草薫が素晴らしく、安藤政信のモノローグの声の調子も効果をあげていた。
 それにしても、こういう作品を観ると、今や人が他人の言葉を本心として信頼するのが本当に困難になっているのだなということが逆に偲ばれるような気がする。里見健一(安藤政信)の呟きが本心として信頼されるのは、ある意味で「サトラレ」という形で、当人の意図が働き得ないことが前提とされているからこそであって、そうでなければ無理なのだろうと容易に推察できる。これを個人への信頼という問題から社会への信頼感という形に転じて考えてみれば、情報公開法やインフォームド・コンセントによって達成できるものがいかばかりのものなのか、大いに怪しいような気がしてくる。
 しかも、彼が村人の信頼を得たのは、単に「サトラレ」であったからではない。彼の祖母(八千草薫)が「あの子は、ただ声が大きくて正直なだけなんです」というように包み隠さずに現れてきたものが、まさしく信頼に足る人格だったからに他ならない。そういう意味では、社会への信頼感を育むものも、そういう公開のための手段が担保するものではなく、公開されたものの中身そのものであるわけで、ますますもって道は険しいと言うほかない。


推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2001sacinemaindex.html#anchor000588
by ヤマ

'01. 4.20. あたご劇場



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>