『ベンヤメンタ学院』(Institute Benjamenta)
監督 ブラザーズ・クエイ


 生命なき物に動きという形で生命を与えるアニメーション作家でありながらその創り出す世界には、いつも死の匂いが漂い、その不思議で妖しい特異な映像感覚により魔術師と呼ばれるクエイ兄弟が初の長編劇映画に取り組んだ。それがこの『ベンヤメンタ学院』で、当然のことながら彼らは、生命体である人間やサルを使っても、どこか生命感の希薄なアニメーション的世界を構築している。怪しく不気味でいて美しくもある独特の映像は、さすがと思わせるだけのものがあるし、グイグイと物の微細な部分と表面にカメラが迫っていく感覚は、アニメーションで観た覚えのある彼らの作品を髣髴させる。

 そして、アニメ作品を観たときには、出会うことのなかった印象深いものがこの作品にあった。それは表情の表現である。確かに表情を表現するのに人形アニメでは、自ずと限界があるのは当然だ。表情を形作る動きの微妙な連続性は、アニメーションでは造形しにくい。『ベンヤメンタ学院』がそのことを強く印象づけるのは、クエイ兄弟がこの作品で表情表現を執拗に試みたのが、顔ではなく、手だったからだろう。威圧する手、誘う手、脅える手、迷う手、偲ぶ手、懐かしむ手、普通だったら、顔を写して表現したであろう表情をクエイ兄弟は、頑固なまでに顔をフレームから切り取った、手の映像によって表現する。しかし、それが決して態とらしくなく、よく分かる気がするのだ。顔の表情というのは、人形アニメによって創造してきた彼らの構築する世界には、生々しすぎて、感興をそぐのだろう。

 さらに、人形ではなく、生身の人間を使った映像世界に取り組むことによって、表情表現だけでなく、妖しく息づくエロティシズムを仄かに漂わせることにも成功している。エロスもまた表情と同様、人形アニメでは表現しにくいものである。しかしながら、死の匂いは、エロスの味つけによって初めて完璧な美の領域に足を踏み入れることのできるものであり、エロスなき死は、殺伐無惨なものでしかない。

 ボルヘスの作家ローベルト・ヴァルザーの幻想文学「ヤーコプ・フォン・グンテン」を原作とするこの作品の映画化を思い立ったとき、そのエッセンスが死とエロスにあると感じたからこそ、クエイ兄弟は、従来の人形アニメという手法にとどまらなかったのではなかろうか。原作は未読ながら、おそらくはその雰囲気をうまく醸し出しているのだろう。しかしながら、原作ものゆえ、ある意味では忠実に抽出されたであろうテクストは、字幕の翻訳のまずさであったかもしれないのだが、映像の持つインパクトと拮抗して観る側に伝わってくるほどのものではなかった。ストーリーよりもテクストが意味を持つ文学であったろうゆえに、映画化に際して最も重要な部分が弱い形の作品になってしまったようで残念な気がした。


推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001hecinemaindex.html#anchor000541
by ヤマ

'97. 7.25. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>