『魂のジュリエッタ』(Giulietta Degli Spiriti)
監督 フェデリコ・フェリ-ニ


 夫との愛情関係に不安を抱いている更年期の女の話であるが、その設定からは、およそ想像もつかないスケールの大きな映像が展開し圧倒され、余人には真似の仕様もないフェリーニならではの芸当につくづく感心させられる。あの奔放な、とはいえいかにもフェリーニらしいイメージの数々には、サーカスにしても象、馬、飛行機、行列、祝祭、セックスあるいはアニマのイメージにしても、どれももうかなり慣れっこになっているはずなのに、それでも相当のインパクトがある。イメージそのものの魅力もさることながら、その視覚化ないしは映像化が巧みであるということなのだが、それ以上に、こういう話をそれらのイメージでもって見事に語り得ることへの驚きと、フェリーニがどんな話どんな設定を借りようとも、必ず彼自身の原形イメージに引き寄せて作品化してしまう、力業とも言える彼の表現の志向するところに圧倒されるのである。ドラマは、それにふさわしい表現が模索される対象としてあるのではなく、彼のイメージをより効果的に印象づける装置として組み立てられているものに過ぎないとさえ思えてくるほどである。
 前作『81/2』で彼は、現代という状況のなかでは、純粋に創造者であろうとするならば、沈黙しかないと宣言している。表現者が創造者たろうとして行なう沈黙とは何なのか。沈黙とは即ち己が内に閉じ篭ることであるとするならば、徹底的に私的で個人的なる表現は、沈黙の表現と言えるのではなかろうか。彼が、『81/2』で言った沈黙とはそういう意味であったと思われる。この作品が、その後の第一作であり、これ以降、彼の作品が、自身のこだわるイメージないしは原体験を機軸とした表現の先鋭化の方向に展開されていったことも、それによって了解できる。そういう意味では、この作品は、その後の作品群と比べると、イメージの奔放さはあっても私臭が薄く、彼の意図するところからすれば、不徹底であるということになるのかもしれない。しかし、近作『そして船は行く』がいかにもフェリーニ的な世界を構築しながらも、私臭が薄くなって円熟を感じさせたことを思い起こすと、『81/2』以降の一連の作品群の大きな流れが見えてくるようで興味深い。
 ところで、この作品において、もう一つ忘れられないのが、その色彩の豊かさである。これだけカラーの氾濫している現在においてすら、その美しさには目を見張るものがある。色彩というものが、これほどに煌めいて見える映像というのは、そうあるものではない。その点では、フェリーニの作品のなかでも出色の美しさではなかろうか。まるでフィルムを試すかのように、様々な色彩を、手に取るグラス一つ一つの色を変えるというような凝り方で見せてくれる。それは、よく言われる美しい映像に見られるような、何かの色によるイメージの鮮やかさを求めるというのではなく、光を捉えるために色が使われるのでもない。画面に登場する様々な色の物体は、そういう色をした、物としての存在意義を持つものというよりも、その色を画面に登場させるために借りてこられたものに過ぎないと思われるほどであり、いわば色彩そのものが主題というべきなのである。
by ヤマ

'88. 2. 3. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>