『ファイブ・イージー・ピーセス』(Five Easy Pieces)
監督 ボブ・ラファエルソン


 音楽一家に生まれ、確かな才能もありながら、それを活かすこともなく、その日暮しの肉体労働者として過ごしている男ボビー。しかしながら、その生き様は、よく描かれるような反抗なり抵抗としての自己表現ではないし、挫折による屈折でもなさそうである。敢て言うならば、純然たる逃避の生き方である。彼は、あらゆる場面で生に対して後ろ向きである。積極的な行為とも言える自殺などとは全く無縁である。そのくせ、日常生活での言動はアグレッシヴで、常にトラブルメイカーでもある。それは、肯定できるだけの自己表現を果たしていないことへの欲求不満とインフェリオリティ・コンプレックスによるものであろう。そして、自分の引き起こす様々な面倒からはいつも逃げたいと思い、逃避を自己防衛としている。彼には、拠るべき何ものもないからである。自分も友人も仕事も女も。

 こう書くと、主人公のボビーは、全くどうしようもないつまらぬ人物だということになるのだが、観客の眼には、そうは映って来ない。それは、役者ジャック・ニコルソンに負うところも大きいのだが、彼には、痛みがあることが表現されているからでもある。一夜の情事を共にした兄嫁から、「自分を尊敬できなくて、家族も仕事も友人も、何一つ愛せない人がどうして他人に愛を要求する資格があるの?」と拒まれ、うなだれるボビー。彼は、決して心の薄汚れた人間ではないのだ。孤独で、そして余りにも弱い人間なのである。彼の父親への思い、それは申し訳なさなのだが、それすら父親が死を目前にして口もきけなくなってからでないと言えないのである。強くあるためには、自であれ、他であれ、守るべき愛の対象が要る。それが得られなかったのがボビーの不幸であり、彼の生の痛みも愛することを知らないことによる。その点、ボビーにしがみつく一途な女であるカレン・ブラック扮する女が、知性も品性もないのに、ただ生ということにおいては、実にタフでヴァイタリティがあるのと極めて対照的である。彼女は、すぐに泣くのだが、彼女に悲しみはあっても、生の痛みはない。それは、 彼女が彼を愛しているからである。

 ここで自由ということについて考え合わせてみると興味深い。真の自由とは、何ものにも捉われないことではあっても、何ら拠るべきものを持たぬこととは違う。自由を獲得するには、自己への信頼が不可欠である。換言すれば、唯一強く拠るべきものとしての自己を必要とする。一方、逃避とは、逃避の原因となる状況に強く捉われることから起こってもいるのである。 '71 年のこの作品には、自由の象徴としての旅と似て非なる、逃避の結果としての放浪が描かれている。'69年にイージー・ライダーで自由を讃えながら、それを脅かす状況への怒りというものを描いたBBSの連中が '71年には、自由を実現するには、余りにも弱い存在としての人間を描いているのである。この二年間には、彼らにとっての理想としての自由への現実的な挫折の心情が込められているように思う。嘆きでもある。時、あたかも挫折の時代であった。日本における学生運動、アメリカにおける反ベトナム運動etc。アパシーが人々に浸透し始めた転換期でもあった。


推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/e/g220.html
by ヤマ

'85. 2.17 名画座



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