生田原銅山跡  探検: 北の細道 生田原銅山

生田原銅山 岐路がもたらしたもの




北海道遠軽町


 JR石北本線遠軽駅は かつてはその延長に名寄本線が接続し鉄道の要衝であった。
ところが名寄本線が廃止となった今、スイッチバックの折り返し駅となっている

瀬戸瀬

青丸が遠軽駅、赤丸が安国駅(下生田原)、黄丸が瀬戸瀬駅である。
瀬戸瀬からも安国からも一旦遠軽に入構した後、
折り返してそれぞれ隣駅に向かう。
鉄道においては赤ラインの直通ルートは無い。

石北線が分岐し名寄本線と接続するその分岐駅をどこにするのか、
それは町の発展を左右する運命の選択である。
本来の地形的選択と旭川‐根室、稚内ー網走道路の交差点でもある
下生田原(安国)を分岐点とし、
瀬戸瀬に直通接続することが最善と考えらえた。

ところが政治的策動が悲劇的な誘致争奪戦を招き、結果的に遠軽が勝利する。

分村独立による生田原村の誕生は大正14年元旦である。
大正9年の生田原市街大火発生後、遠軽村からの分村が有志の間で叫ばれた。
これは第一次大戦後の反動不況が終息し、
鉄道開通効果と林産・鉱産分野の開発が到来したことに起因する。

大正11年に分村建議案が上程、関係機関への陳情書請願と相成る。
しかし下生田原(現安国)と生野の関係者間で時期尚早派が発生し、
下生田原住民130名と生野住民90名によって、逆に分村延期の陳情書が提出される。

延期陳情の書面上の要旨は、
・大戦後の不況と大水害で農商業者の低迷が続いている。
・本分村案は村議会において地元議員欠席中に即決されたため好ましくない。
・上生田原の意向であるなら、上生田原村を建設すればよい。

という内容であったが、実際には石北本線の分岐点問題が大きく影響していた。
分岐駅が遠軽なのか下生田原(安国)であるかによって、
分村せずに下生田原・生野が交通要所となることになれば、
遠軽の行政的中心地になり得ることが大きかった。
よって、大正12年の分村嘆願がこの影響で遅延したのは確かで、
下生田原・生野と上生田原を二分する大問題へと発展する。

やがて鉄道分岐点が期待とは裏腹に遠軽に決定し、
代わって各生田原管内鉱山の前途が大きく開けたことも加算され、
下生田原・生野の住民も分村に快く同意、
二年間の遅延後分村が決定し、『生田原村』が誕生した。

分村に拍車をかけるきっかけとなった鉱山の盛況。
その中でも小さな銅山の現状を、
初冬の晴れた日に追ってみよう。

沢登り・坑道・銅山・・・



三角点
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