上村炭鉱跡  探検: 北の細道 上村炭鉱

上村炭鉱で選炭所に登る



北海道美唄市

   北海道の石炭産業の衰退を出炭量の推移から考察すると、
昭和20年を最低として 「傾斜生産方式」S21.12.24政府による経済危機突破のための石炭・鉄鋼重点生産政策 などの採用、軍需景気などにより、
昭和25年以降は戦前レベルまで回復、昭和30年代に最高出炭2,295t/年を記録する。
この時代の全国に対する出炭量の道内シェアは30〜43%を占めていた。

そしてこれは昭和40年代初頭まで上昇したが、その後エネルギー革命の進行により
昭和45年には2,000t/年を割り、以後加速度的に下降し昭和50年には1,100t/年となる。
全国シェアに関しては、全国の閉山連鎖により昭和40年代後半にはその60%を占めることとなる。

また炭鉱労働者数推移から見ても、昭和23年の10万4244人をピークに、
以後一貫して減少傾向に転じ、昭和50年には1万5000人を割ることとなる。
全国数と比較しても昭和30年代は25〜36%だったものが、
昭和40年代後半、63%を占めることとなる。

一方、鉱夫一人当たりの月間出炭能率を比較すると、
昭和20年〜43年まで北海道(7.9t〜49t)全国(6.1t〜47.9t)と、
北海道の方が出炭能率が4〜5%良好なまま推移してきた。
ところが昭和44年には横並び、その後全国平均の方が4〜5%良好と逆転してしまう。
つまりは一人当たりの出炭能率が低下してきたことを意味する。


つまり、経済発展の担い手である、国産エネルギーとしての石炭が、
新エネルギー源(石油・天然ガス・高品位輸入炭)に脅かされたのは、
昭和30年代のエネルギー革命からタイムロスを経た昭和40年代からであると言える。
このタイムロスの要因としては、高度経済成長に伴うエネルギー需要増加が、
昭和30年代は永続したことに起因し、ダイレクトな石炭産業衰退には結び付かなったようだ。


美唄市北東の上村炭鉱は大正11年に鉱区開坑、昭和18年企業整備により休山、
昭和22年再開、昭和32年モデル鉱となる。
昭和36年上尾幌(釧路)の採掘にも着手するが、出炭低下。
昭和42年4月閉山となる。

一時は 「バウムジグ水選」水中で空気により上下の脈動を与えて比重差で原炭をより分ける がなされ、229名の鉱員が在籍した。
社宅・アパート・寮も建設され繁栄を極めたという。

残雪の中、山中の選炭施設を登ってみよう。






レール・選炭所・遺構・・・



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( ̄u ̄;)選炭所





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