四十三年後の戦死

(1987)昭和62年8月8月14日、父の戦死の公報を受け取って43年、今思うと最後のチャンスであった戦死の詳報を知った状況を振り返り、今尚、現地或いは南方洋上で手懸りを求め慰霊を続けておられる関係の皆さんのご苦労を労いたいと思います。

十二年前の私の体験を当時の手記で思い起したいと思います。

私は、今夏、八月十四日、名古屋市松坂屋で開催された「鎮魂、外地に眠る兵士たちの詩」展に行って参りました。

かねてから、父の戦死については何か、すっきりしないものがあり、一度確かめておく必要があるのではと思っていました。

それで、出掛ける前に、弟に、父の戦死の公報等、当時の資料を出して貰い、そのコピーを持って出掛けました。

会場のオープンに間に合う様、早く家を出ました。会場へは、オープン直後に着き、展示物の見学は後回しにして、会場の一番最後のコーナーに設置されていた「取材デスク尋ね人」の会場へ直行しました。長い机と椅子があり、三人の人がおられました。真ん中の机に、「南方方面」と書いた紙が貼ってありました。隣の机には「満州」という紙が貼ってありました。

私は「南方方面」と書いてあるところに座っておられた、初老の恰幅のよい人に尋ねました。その人は、レイテ島派遣二十六師団戦友会「泉会」副会長、山田武彦さんと申されました。

「公報と履歴申立書があるのですが、父の戦死の状況がもっと詳しく分からないでしょうか」

山田さんは書類に目を通してから言いました。
「この公報は死亡告知書となっている。これは珍しいですよ。殆どの人は死亡認定書で、行方不明とか、確認不能のケースが多くて、告知書の場合は、誰か、その最後の場面に立ち会っていた筈です。いわゆる、死に水を取った人が人がいるのではないだろうか。それに、準戦傷死という認定はどういう事かなあ。こういう事は非常に珍しい。是非よく調べてみなさい。お手伝いしますから」
ということで、まず愛知県庁の障害援護課へ電話をして下さいました。そして
「県庁に第百三十三部隊の軍歴と、お父さんの履歴が記された資料があるから、それを見てみなさい。今から行ってきたらどうですか」
と言って下さいました。
私は会場を一巡し、あらまし見学しました。戦地から家族に宛てた封書、葉書、私も父から届いた葉書を思い出しました。二通来ましたがそれは空襲で焼けました。その他、錆びた軍刀や車装品、特別展示の終戦の詔勅原本.ミズーリ船上での降伏文書等を複雑な気持で見ました。
会場を後に、私は県庁へ向かいました。

県庁で、担当の山田さんという女子職員の人が資料を出してきてくれました。
「コピーは出来ませんから、必要なら書き取っていって下さい」
との事でした。私は父の履歴に目をやりました。十行ほどの記録でしたが、その最後の行を見たとき、私は愕然としました。
「二十年九月五日、軍医少尉、比島に於いて渡河中瀬死」とありました。
「溺死」???。私は、暫くどうしたものかと戸惑いました。が、とにかく書き写す事にしました。
私は、それまで、準戦傷死というのは、戦闘中怪我をして、その結果九月五日に亡くなったのだろうと思っていました。書き取って、丁重にお礼を述べ、県庁を辞しました。

新しい事実を求めて訪ねた往路とは違い、帰路は足取りが重くなりました。「溺死」の二字が脳裏に往来します。地下鉄に通じる、長い地下通路を歩く私の足は、無意識の内に引きずり気味でした。
地下鉄の車内でも、何か胸に込み上げてくるものがあり、目の奥がジーンとしてきました。暑い炎天の最中でしたが、家に帰り、その足で、弟にそれを伝えました。
その日の新聞には、ガダルカナルで部隊が撤退する時、船に乗りきれず、取り残されたり、船から転落して大勢の溺死者が、海岸に打ち上げられたりしたという記事が掲載されていました。そういう状況であったろうかと思いました。
山田さんに教わったように、厚生省へ留守名簿の閲覧について問い合わせたところ、数名ならば返事が頂けるとの事で、早速、部隊名等を報告しました一週間程して、七名の人の名簿が送られてきました。遠くは九州、近くは愛知県渥美町、その他、京都、長野県などの人が書き並べてありました。私は、電話帳、郵便番号簿等で町名等の変更を訂正の上、自分の心惰を書き記して、お願いの手紙を発送しました。 果たして自分の思いは叶えられるものか、半信半疑でしたが、二日後、二通の手紙が宛先不明で返送されてきました。駄目かなあ」と思っていた夕方、電話が鳴りました。私は仕事をしていましたが、息子が電話を伝えました。思いがけずも、渥美町のKさんからでした。
「あなたのお父さんとは一緒にいましたよ。お父さんは終戦まで大変元気で、五体満足でした。ただ、聞いた話では、収容所に向かう途中、筏を組んで、それで河を下ることになり、その筏が転覆して、安藤軍医は河へ放り出され、それで亡くなられたということを収容所で聞きました。私は本部付だったから間際まで一緒でしたが、最終段階では部隊は、バラバラに散開状態だったから、現場には居合せなかったのです。ですが、あなたのお父さんには何かとお世話になりました。爆弾の破片が身体に入った時、手当をして貰いました。一度詳しくお話がしたいですから、是非私の家までおいで下さい」
との事でした。電話の終わりがけに、奥さんが替わられて、奥さんも、主人がお世話になりましたから是非おいで下さい。と言われました。私は、是非、近々伺うことを約束して電話を置きました。
筏という事はこの時、初めて知りました。

翌日夜、大分県のOさんから電話がありました。Oさんは
「私は一諸でなかったから良く分かりませんが、鹿児島在住のMさんが、戦友会の会長をしていて、戦記と部隊の名簿を作られているから、そちらへ貴方の手紙を転送しておきました。Mさんは衛生兵だったから、貴方のお父さんの事は詳しくご存じではないでしょうかとの事でした。
私は、その戦記を送って頂く様お願いして電話を置きました。

数日後、飛行場大隊戦記、戦友名簿が送られてきました。私は、早速それを開き、急ぎ目を通しました。部隊の編成時から解散までの行動が詳しく書かれています。
父の事は、終りの方で数行に亙り書いてありました。やはり、筏で他の隊員と行動を共にし、生死の別れ目になったようです。Mさんにも、電話で状況を伺いましたが、Mさんは前線に居られ、父とはアメリカ軍の上陸の段階で、本部とは別行動を取られたとの事でした。
隊員の中でも戦闘員、非戦闘員に別れているようで、本部は後方に控え、前線部隊はアメリカ軍と対蒔していたようです。中隊長は切り込みを敢行されたといいます。一度は玉砕命令も出されています。すぐ転進に変更されましたが。
終戦を迎え、山岳の奥地にバラバラに散開していた部隊は、それぞれで投降地点に向かうことになったのですが、後、お尋ねして伺った話では、アメリカ軍基地までは三日かかったそうですですが、その三日間を歩く体力、気力があったかどうかは分かりません。
マラリヤ、アメーバ赤痢患者もいたでしょうし、怪我人、また飢餓状態で、体力の消耗も限界に達していたと思われます。そういう状況下で、果して、正常な判断力があったかどうか疑われます。戦記に依れば、部隊の戦死者百四十六名の内、三十五名は八月十五日以後に亡くなっています。最後に亡くなられた方は十一月二十八日になっています。
戦争はその段階まで影響を残したということです。タクロバンの収容所で病死された方が最後です。残念であったろうと心中祭せられます。
その他、山中で餓死された方、自決された方、悲惨を究めたとのことです。戦記に依り、大体の様子が浮かび上がってきました。これは大きな収穫でした。これほど詳しい状況が分かるとは夢にも思いませんでした。私は、早速、山田武彦さんに電話で報告しました。山田さんは大層驚かれ
「そんなに詳しく分かりましたか。それは貴方のお父さんが余程人格がある人ですよ。普通そこまで連絡をしてくれる人はいませんよ。あまり話したがらない人が殆どで、よくそこまで分かりましたね。それは素晴らしいことですよ」

と言われました。私は
「ミンダナオ島の地図はありませんか」
とお尋ねしました。
「捜してみましょう」
と言うことで、折り返し電話があり、ミンダナオの地図と戦跡図を送って頂く事になりました。
数日後、それは送られてきました。これは.詳しく説明が付いていて、大変参考になりました。添えられていた手紙には

「こんなに早く分かるとは思いませんでした。これは、お父さんの御加護だと思います」
と記してありました。
私は、その地図を持って、渥美町のKさんのお宅を訪問することにしました。

Kさんを訪ねて

 九月十三日、私は、父の戦友、Kさんを渥美郡渥美町のお宅に訪ねることになりました。
数日来、天候がすぐれず、どうしたものか前日の夜まで迷っており、前夜電話を入れ、明日は天気がはっきりしませんから、二十日ぐらいにお伺いする旨、連絡をしていました。

折角、連絡を下さったのに、何時までも出掛けずにいるということは大変礼を失することになりますから是非、早く行きたいものだと思っていました。
十三日の朝は、雲も切れ間が見え、これなら行けるのではと思い、名古屋の墓へ行こうかと思ったのを、急遽変更し渥美へ行くことにしました。電話を入れ連絡の後、資料を用意し出発しました。
八時過ぎでした。一宮インターから豊川インター迄は東名高速道路を行くことにし、豊川から豊橋を経て、国道259号線を江比間迄走り、江比間を東進、道下に至る長距離走行となりました。
東名は91キロ(約一時間、豊川からKさん宅迄は、約四十キロ、一時間強、大体二時間半の道程でした。江比間までは簡単に行きましたが、やはり田舎は良く分からず二度ほど尋ねました。
田や畑、それに、渥美はハウス園芸が盛ん,ですから園芸用のガラス張りのハウスが多くあり、国道沿いにメロンの販売コーナーが所々にありました。晒落た喫茶店やレストハウスも見られましたが、江比間の海岸に出るまでは、あまり眺めの良いところはありません。

Kさんのお宅に着いたのは十時五十分頃でした。Kさんのお宅は、農家らしく大きな敷地に、まだ新しい和風の二階家で、三世代の家族で住んで居られるようでした。
お訪ねすると、おばあさんが出てこられて

「今、おじいさんは畑へ行っています。十一時頃来られるとのことでしたが、早くこれましたね」
と言われました。中風で、身体が少し不自由だそうですが、それでも歩行は出来るようで歓迎して頂きました。
お手洗いを拝借していると、Kさんが畑から帰ってこられました。七十四才とのことでしたが、背は163センチとかで、筋肉質の、いかにも丈夫そうな人でした。
色々訊ねましたが、目を閉じては、思い出すように、とつとつと話して下さいました。空襲で爆弾攻撃を受け、その破片が左肩に深く突き刺さり、麻酔もないので、その侭、赤チンを塗っては切開し、関節の間にくさびのように食い込んでいたのを、痛いのを我慢して、 父にピンセットで苦労しながら摘出して貰った事など、肩には、まだその傷跡が残っていました。
父は162センチぐらいの背格好で、細身だったが親切で優しく結構明るくやってましたよ。との事でした。プランギ河の事は良く知って居られましたが、山岳地帯の激流で放り出されたら、泳げる人でも、まず助かることは難しいとのことです。
部隊長も、確か筏で下ったと聞いているから、或いはその時、一緒だったかも知れないとのことでした。Kさんは軍曹で、同僚、部下十五人と行動して居られたそうですが、一人は亡くなられたが、残る十四人は三日の行程を歩き続け、アメリカ軍基地へ辿り着いたそうです。
食糧は、転進時の分配で、靴下二本に米を詰め、一本は、いよいよ最後の時、それをお粥にして、腹一杯食べて死ぬことにしようと、背中にしっかり括り付けていたといいます。兵隊の中には、我慢出来ずに食べ始める者がいたので愚痴をいったこともあったといいます。
三日間の食糧として、辺りに生えている、食べられそうな草を集め、それを担いで歩いたといいます。三日後、アメリカ軍基地の対岸に到着し、合図の後、もうこれで大丈夫だと、持っている米を全部出して、白いご飯を炊いて食べたといいます。
その辺りはどういう状況か分かりませんが、対岸からロープを渡してボートに乗ってロープ伝いにアメリカ軍基地に投降したのだそうです。
父のグループの状況が、如何なものであったか分かりませんが三日歩くことが出来たなら或いは、とも思われるのですが、それも今更、何おかいわんや。
一時間ほど、お宅で話をしていましたが、お昼になり外で食事をという事になり、Kさんと二人、近くの花屋という料亭風の店へ行き座敷で対談をする。
お宅を辞する時、おばあさんとお嫁さんが送って下さり、メロンを五個頂く。おばあさんは頻りに戦争は終わっていたのに残念な事をと言われる。
昼食を頂きながら、当時の状況をぽつりぽつり話して貰う。
「玉砕命令が一度は出たのですか」
Kさん曰く「武器が無いんです。銃があるだけで突撃しても無駄死にするだけです。部下の中には、自分自分で行動しようと言う者もいたけれども、私は、あくまで部隊長の命令に最後まで従うことにする」と言ったそうです。
「草と言うのは、どういう草ですか」
「柔らかそうで汁気の多そうなもので、例えばセリ、タンポポのようなもので(あく)の少なそうなものですが生では、おなかを壊すので少し米を入れて煮て食べた」
「動物性のもの肉はありましたか」
「それが蛇一匹いないんです。蛇を見たのは収容所へ入ってからで蛙もいない」
「魚はどうですか」
「河か池にはいるだろうけれども、手留弾を池にぶちこめば魚は浮いてくるかも知れんが武器を無駄遣い出来ないから、それも出来なかった」
「飢餓状態はどれ位続きましたか」
「約一箇月だった。皆飢えていたから何か不気味で怖かったよ」
私は、飢餓の中で人肉を食べた話がチラッと脳裏をよぎりました。もし仮に、そのようなことがあったとしても、絶対それは誰も口をつぐんで言わないだろうと思います。フイリッピンでの死者の多くが餓死であると言う事実は、如何に究極の状態であったかを物語ります。
「土民は襲ってきませんでしたか」
「土民は来なかった。部落へ入っていって首長のところへ行くと、ここには入ってはいかんという。戦闘が始まると、さっさとどこかへ逃げていってしまう。食糧を捜しても同一つ残っていない。芋も掘って奇麗に無くなってしまっている」
「芋というのはどんな芋ですか。タロ芋ですか」
「いや薩摩芋と全く同じようなもので結構美味しいよ」
話は一時間ほど続きました。刺し身、しゃぶしゃぶ、焼き魚、酢の物、揚げ物などご馳走を頂きましたが私には食べ切れません。
私も、戦後の育ち盛りに、食べ物に飢えた記憶があります。食べ残すことは何時も心苦しいのですが、おなかと相談ですから勿体ないと思います。
「何か仕事をしておられますか」
「菊の栽培をやってます。若い人たちと一緒には出来ないので、自分のベースでぽつぽつやってます」
「ハウスですか」「いや露地です」
「お丈夫そうで結構ですね。ご病気はないんでしょう」
「十五年前、癌の疑いがあると言われて胃の入り口を切ったのだが、それ以後は何でもない。ただ、横になると胃液が出て胸焼けがして困るんです。でも、まだもう暫くは生きていたいですよ」と言われました。私は
「うちの親父さんの分も含めて長生きして下さい。まだ四十年生きられますよ。頑張って下さい」
来年五月頃、東京の靖国神社での戦友会でお逢いする事を約束して、花屋の表でお別れしました。
再び、豊橋、豊川を経て東名を一路、帰りました。往復約300キロの道中でした。観光地ではありませんから、再び訪ねることはないかも知れません。部隊長さんには来年逢えるかも知れませんが、古傷に触れるような事は控えたいと思います。
ミンダナオへの派遣部隊の一部はは、第三十師団(豹兵団)16653名で、戦死者は14046名、戦死率約80%であります。第133飛行場大隊は361名、戦死者百四十六名、戦死率約45%。バレンシヤ飛行場は島の中央部で敵に道遇したのは最終段階で、四月二十六日飛行場撤退、五月二十八日警戒陣地を突破されます。
バレンシヤ撤退の日まで、日本軍に協力していたプキドノン州知事ダビッド氏が、米軍の案内役で日本軍に迫ってくる。
大隊長とは親交のあった人だけに、攻撃のチャンスを失したといいます。警備中隊長はその責任を感じて、切り込みを敢行、戦死されたといいます。
六月十日、米軍の猛攻で洞穴は潰れんばかりになったとの事です。夕方、遂に玉砕命令が出て、持ち物全部を涙ながらに焼却したそうです。が、命令は転進に変更されました。山岳奥地を分隊単位でさまよう事になったのです。
ミンダナオ島では、その他にも砲兵第三十連隊本部、大塚昇大佐以下75名全員が二十年六月二十五日、ウマヤン河を竹筏で下り滝壷に落ち全滅しています。
島には太い孟宗竹が鬱蒼と繁茂しており、筏を組むという考えは思い付くだろうとの事です。
宗教画に見られる、地獄絵図は現に繰り広げられたのです。餓鬼道の世界が現実にあったのです。飽食の時代といわれる現代、再び餓鬼の世界が来ないという保証はありません。食べ残して捨てる事なのないよう、出来るだけ心したいものです。
お陰で思いがけないほど詳しい状況が分かり、大勢の人々の助けを得て納得の出来る結論に達したことは本当に感謝に堪えません。永年のもやが晴れたようです。
父は、あまり丈夫ではなく、十九年六月応召、その侭.軍事教練も受けずフイリッピンに派遣され、歴戦の勇士の中でまごついた事と思います。が、それなりにお役に立てたことと思います。
渥美へ行ったその足で、お墓へも行って来ましたが、心なしか、お墓に魂がこもったように見えました。
父は、フイリッピン、ミンダナオ島プランギ河の河面に、その姿を永遠に消しましたが、私は父のことは永劫忘れることはありません。
来年、靖国神社で.戦友の皆さん、そして父の御霊に逢えることを念じて筆を置きます。

昭和六十二年九月十六日記

追記
フイリッピンへの、十九年十月以降の参加勢力は、厚生省発表に依れば、陸、海、非戦闘員を含めて592000名であった。その内の戦没者は464952名。
消耗率は78%に上った。ミンダナオ島の戦没者は54447名であります。ちなみに、レイテの戦没者は97%でありました。
Kさんとは、その後、靖国神社でお逢いしましたが、奥さんが亡くなられ、その後を追うように亡くなられました。責任感の強い方で、奥さんの病状悪化の中、私の靖国到着を待ち受け、部隊長に私を引き合わせ、すぐ帰宅されました。
亡くなったことを知り、私は写経一巻書写し、御冥福を祈り、お送り申し上げました。

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