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 映画「八甲田山」の世界 

紹介
この本は「映人社」がS52年5月25日発行しました。
私が所有しているのは同年6月17日第二刷発行のものです。¥1000.
古本屋で¥500で、かなり後、購入しました。

絶版になっていると思いますが「映人社」はまだ存在していると思います。
東京都豊島区東池袋5-32-10 TEL 03.585.-0965 現在は変更されているでしょう。

目次 
現地地図、撮影スナップ、名場面集、製作ノートより、橋本忍、製作意図、
スタッフキャスト一覧、

    シナリオ「八甲田山」
    座談会「雪と寒さの地獄から」 橋本 忍    (製作、脚本)
                       野村 芳太郎 (製作)
                       森谷 司郎   (監督)
                       木村 大作   (撮影)
                       神山 征二郎 (助監督)

雪上車上から クレーン上から 森谷監督と木村カメラマン ロケ隊スタッフ
座談会の要点

初め2ページ程を本から紹介して、後は要点をダイジェストにして、ご紹介します。
本編は、ビデオ、又は最近発売されたDVD版などをご覧下さい。


企画と原作

橋本 四十六年に原作が出た直後、野村さんから「八甲田山死の彷徨」という小説を読まれましたか、と聞かれたんだが、僕はまだ読んでなかった。
野村さんは映画にしたら面白いんじやないかと言われたが、昔、青森から国鉄バスに乗って八甲田を通って十和田湖へ行った ことがあって、そこでバスのガイドさんが歌ったりして雪中行軍で兵隊が二百人近く死んだということは聞いていたんで、兵隊さんが二百人死ぬ話というのは映画にならんじやないですかすかって言ったら、いやそうじやない。
同し時期に弘前からも三十七人が逆に 行って、彼らは一人も死なずに生還している。それが「八甲田山死の彷徨」だといわれるんで、それは面自いかもしれないと原作を読み、映画になるんじやないかと思ったわけです。
で、森谷君に話したら森谷君は既に原作を読んでいて、やろうじやないかということになった。


野村 四十八年の夏頃からですね、「砂の器」と「八甲田」をやろうと言いだしたのは。
だから両方殆ど同時スタートで、順番は「砂の器」を先に、ホンも出来ているし、やると。
で、「八甲田」はその次にやる。準備としては同時スタートです。ただ、他のプロがやりたがって いたり、いろいろなことがあって、実際に具体的に詰めるのには四十九年になりましてね、僕の記録によりますと、二月の十五日に新田さんの所ヘ、ま、その前に下交渉があったんですけども、行きまして原作をかためた。
ですから二月十五目というと、まだ「砂の器」のスタートの−

橋本 三、四日前だ。
野村 ですから、本当に同時にスタートしているわけです。
橋本 この原作については、いろんな独立プロや映画会社から研究をさせて下さいということで、やれるかどうかわからんからツパを つけてる状況が続いていた。決定的にこの原作を下さいと言ったのは僕らが一番初めだったんだな。
野村 ええ、あとは研究さして下さいということで、よそから話があったらちょっと待ってもらって、うちも研究をといったような話ですね。
なかなか、やっばり、どうやって作るのかちょっと見当がつかないというのが、この原作のもっている性格じやないですかね。
橋本 たとえば原作を買うでしょう、ところがむこう(青森)行って調べたら出来ないという結論が出たとしますね、我々はそれであきらめますよ。
だけど映画会社の場合には買っていないものを研究してみても仕方がないし、第一できもしない原作を買ったりするだけで、誰かの責任間題にもなる。
その点、我々は違う。皆んなで、これをやると決めたんだから、まず買うことが先決で、どういうふうにやるかは、それからあと
のこと。いろいろやってみても出来なきや、しようがないわね、そういう割り切り方ですよ。
野村 それともう一つは、僕らは映画何本かやってきて、取り上げる前に、どこかいけるという勘がありますよね。
やりようがある、作りようがあるという、その勘にふれないものだったらやっばり手がつけられないけれどもこれは何か方法がある筈だと、そういうものがありましたね。

橋本 一人も反対者はなかったもんな。ということは、これだげ映画やテレピの世界でメシ喰ってる奴がいて、これはいけるんじやないかということ・・…中には一人や二入反対する者が当然出てくるのを、全員一致で、やり方は難しいけれども、やればいげるんしやないかつてことだった。
森谷 だから、映画的に非常に魅力のある素材であると皆んなの意見が一致したということでしょうね。
だから研究してみようってことは即、 買うってことになるわけで、皆さんは研究してたらしいんだけど映画的魅力を感じることが少なかったから〃研究〃が長びいたんじやないのかなあ。
結果論かも知れないけど。出来るか出来ないかは、正直言って我々だって、それから紆余曲折があるわけなんだけども、それに魅力 を持つという、映画的素材なんだという・…・ここれに太きな魅力を感ずるってことが大事なんだと思いますね。


ロケハン始まる

橋本 「砂の器」の撮影が青森県の竜飛岬で二月の十九日から始まって、その時に森谷君がロケーションを一日だけつき合い、青森へ引返し、 八甲田へ入った……だからあれは四十九年の二月二十日ですね。
野村 「砂の器」は十九日にクランクはじめて、森谷君は二十日にロケハンをはじめたわけです。
橋本 「砂の器」の冬の分と春の分が終った五月の下句ですね、ハンティングは。
野村 十八日にハンティングの打合せをしましてね、二十七日です。僕が秋田のロケハンをやって、青森の駅へ行き、皆んなと合流しましてね。
橋本 それから五連隊の歩いたコースと、三十一連隊の歩いたコースを案内して貰って、その通り歩いた。
で、当初は東京から近い所、どこかの温泉場でスキーでもやる所へ行ったら、裏側は冬山はどこでも同しだから、手近かなところでもやれるという考え方で青森へ行ったが、 五連隊と三十一連隊の歩いたコースを全部歩き終った時には、何年かかっても此処でやるよりしようがないという結論が出た。

僕は第一露営地の跡に立った時、此処でやるよりしようがない、本当は第二露営地の方がドラマチックで、歩いたコースを全部歩き終った時には、何年かかっても此処でやるよりしようがないという、本当は第二露営地の方がドラマチックなんだけど、第一露営地の、あの、平沢の森に立った時に、他で作ってはこの映画は嘘になるんじやないかっていう気がしたんだけど。
野村 僕は印象に残っているのは、弘前を出た田んぽ道で、橋本さんが〃この映画当るぜ〃って言ったのを、一番記憶に……。
雪の中で、此処を弘前隊が歩き出したら、この映画はそれで決まるんじやないかな、というのが一番強く残ってますがね。

それが、ロケーションではピーカンの日に、歌うたつて歩いているあそこなんですがねえ。
森谷 僕は慎重だから、全コース歩いて、やっぱり「田茂(落(草カンムリに泡が正(ヤツと読む、以後同じ)の上にあがった時だね。田茂落(注)のロープウェイで、八甲田、千六百八十メートルぐらいの所、前岳が見えて、行軍コースがず−っと見える所があるんだげど、小峠から大峠……そこで、やっばり此処でやればこのシャシンいけるという気がしたね。
         
以降はダイジェスト
主役を決める
6月下旬頃、俳優を決めなければという事になり、主役の徳島大尉は誰かという事になり、橋本さんがカードに、色々な俳優さんの名前を書いて、森谷、野村さんが選びました。
裏返して行き、のこったのが高倉健一枚になりました。ただ、高倉健は東映以外の出演は今まで無かったから。
撮影現場が決まり、必然的に主役が決まりました。


キャメラテストとシナリオ創作
50年一月から二月、キャメラテスト。キャメラテスト中に冬のシーンのシナリオハンテイング。
地吹雪の中での撮影の限界などをテスト。

次に、撮影スタッフの防寒装備の調査。常識の装備では駄目という事がわかり改良を加える。
現地の人は長靴で平気なのだけれども冷たくて全く駄目だった。

キャメラ助手の耳が凍傷で落ちかけて、まず耳が怖いと知る。
続いて、青森県などに連絡を付け、協力態勢を確立。山岳遭難対策防止協議会がロケーションに協力の態勢。
脚本は二月中旬から始まり、五月二十四日に第一稿完成。
その前に、構成台本は一月十四日完成。それでキャメラテストは行われた。


クランクイン
六月十八日、クランク態勢。十九日現地集合。十九日八甲田温泉泊りロケ。
緒方拳、下条アトムの雪中回想の田代平のつつじの花の満開のシーン。天候が悪く5日かかる。

続いて、新緑の十和田湖、徳島大尉の子供時代の岩木山撮影。衣装小道具調べは五月から六月にかけて。
第二稿は六月二十五日完成。七月十五日から夏のロケ。
ラストシーンの緒方拳の幸畑の墓地や、祭り(弘前、青森のねぶたなど)。十和田湖を繰り返し撮影。
ヘリの空撮(子供時代の岩木川の川遊び、川倉の地蔵祭りなど)十三回。

このシーンで三年にまたがっているが完成では四分、前が一分半、後半二分半。紅葉は翌年。

製作の方法と映画会社
七月八月のロケーションが終わってから、映画会社を決める事になる。
絶対受けると強気で話し合い、十月に製作が橋本プロ、東宝映画、シナノ企画、配給は東宝と決定。

製作発表、帝国ホテル、十月二十日。
加山雄三、加賀まりこ以外はキャストは決まっていた。

高倉隊のロケ
十一月衣装調べなど準備を始め、十二月正式スタッフでロケハン、この時は雪が有ったのだが。
翌年スタート、雪が少ない。ダンプで15台ほど運んで道路や屋根に乗せる。
高倉隊が、弘前平野、岩木山をバックに進軍するシーン。雪が降らず2回のロケが駄目。3回目は6時に起き、朝飯食わずで11時半までかかる。健さん達は、田んぼの中で4時間立っていたから腹が減ったろう。
寒さの経験。大木平の八甲田がバックに見えるシーン。
山の上の広い高原で、午前中3時間撮影。廃校で婦人会の味噌汁を頂いた。

十和田湖畔を歩くシーン。ロケハンの時は、銀山から宇樽部まで吹雪でリアルだったが、本番は、そうならなくて、そうなった時、一週間かかる予定を二日で撮影した。まさに臨機応変だった。土地の人の言う事もよく外れるとか。
それでも七時半には出かけて、ひたすら天候待ち。雪の中だから大型扇風機など持ち込めない。
それで、この年は一月末までかかった。

森谷監督と木村カメラマンは残って二月半ばまで実景を撮影。
四月末、桜を撮影に弘前へ。五月りんごの花、菜の花、田植え、十和田湖も撮る。九月は紅葉。六月特報を作る。
ねぶたの録音など。

十月十七日から、秋の本格的な大ロケーション。
全員に近い俳優さんで新潟県の新発田から弘前、青森へ行く。
思いでの秋のシ−ン。十三湖、稲刈り、脱穀、野焼き、りんごの実り、など。

絶好の好天続きであった。十月末に終わり、セット撮影を、十一月から十二月四日まで行い、打ち上げる。

越冬ロケに入る

十二月十六日,
先発隊が下準備に出発した。

準備は夏、いや一年前から準備をしていた。
丸二ヶ月のロケーションには俳優が約60人、現地ではエキストラが、毎日数百人、延べ6,7千人が出る事になる。
撮影開始は21日に本隊が入りクランクイン。23日。田茂落(参照、タモヤツ)岳は標高1600M、積雪量2M位。
頂上の条件は厳しく、健さんが週刊誌に「凍死寸前」と書いた。一桁違う低温。
ケーブルからドアを開けて出ると目は開けられない。

口は勿論、もう何も出来ない状態。五分を超えて立ってたら死ぬと思う。進めない。
マイナス二十度以下、風が1M吹くと体感温度は
一度落ちるから、マイナス三,四十度と思う。
精神力だけでは克服できない。しかし、それを狙って行ったのだからやらなければと・・。

人は目を開いていられないが、キャメラは瞬きもせず写している。メカニックの限界。しかし、キャメラも止まった。
キャメラはヒーターを付けて完全装備をしている。
ただ、コードは厚くゴムを巻いてやったんだけれども耐えられず、スイッチが凍結。

電気が通らない。そこでキャメラ助手が木下藤吉郎みたいに、懐に10本位コードを入れて暖めている。
ここでと思う時カメラが止まって
しまうので監督は腹が立つ。「コード換えて・・」絶叫しながらの撮影であった。
次は田代平で。徳島隊が大中台に立って初めて八甲田の全容を見る所。
雪上車しか行けないので45才以上は危ないので居残り。

天候が狂うと一寸先も見えない。10台の雪上車で、どこでも野営ができる装備をして一晩分の食料を詰め込んで救援隊を待つ態勢。
高倉隊は十二月三十日までギリギリやり、一応帰ってもらう。
次の青森大部隊は一月から始める。
徳島隊と神田隊を入れ換えた。スタッフはそのまま。
休めなくはなかったがお正月前後が一番冬型の撮影の好条件になるので2日だけ 休んで次の準備にかかる。


神田隊ロケからクランクアップまで
一月四日からクランクイン。青森五連隊(神田隊)はシナリオ通り進む。
大人数なので酸ヶ湯温泉を本拠地にする。スタッフを含めて常時180人くらい。5連隊の撮影はここで70%をこなす。
二十日間位。

青森方面へ下ったり、八甲田の笠松峠へ上がったり。もっぱら雪の中を歩く。
朝起きると新雪で腰まで1Mほど沈む。泳ぐように進む。

最大4.8Mとか。撮影は旨く行った。
朝、6時起き、7時半出発。夕4時半まで。夜間ロケが11,12時まである。俳優さん達は頭がおかしくなった。
神山さんは、ヘルペスという変な病気になり、三回くらい”もう、お金返して帰りたい”と思った。
一人の俳優が東京へ逃げ帰った。又、帰っては来たが誰もがそう思った象徴的な出来事であった。
きつかったのは田代平、笠松峠の手前の迷平、長平、鰺ヶ沢根拠地。
長平には、前年十月二十二日廃車になるバスを五台置き待避所にした。

出演待ちの人を置き、雪が溶けた五月に下ろした。
二月は徳島隊、青森隊がここで同時撮影。神田隊が倒れて遭難するシーン。
綿密なスケジュールを立ててやり、尚も天候の状態に応じて臨機応変に対処する冒険者の精神が必要であった。
冒険者は無計算な事をするように思われるが実際は緻密な計算が有るという事がわかった。
二月十五日、全員が引き揚げる。
木村カメラマンはその後、実景撮影の為、青森に帰り馬立場に立つ。
まだ日にちも経っていないのだが雪上車から出て五分と居られない。

こんなところで撮影していたのかと思いゾッとした。
撮影を終えて

橋本 こないだの打上げ、全部の俳優さんやスタッフが集まった時に、俳優さんたちは、口々に何か自分の心に残る仕事であったと、永遠に。
しかし、二度とやろうとは思わない。(笑い)これが正しいよ。それは全員の気持。
森谷 それから、これは健さんの名言ですよ〃この仕事やったら、何でも出来る〃と思ったと。
自分自身がある極限状況へ、一回は、少なくとも

一回ぐらいは追い込まれていると思うなあ、この仕事に参加した人は。
神山 僕は一回じやないですね。(笑い)
森谷 それから、毎晩寝る前に〃明日もお願いします〃って、蒲団の上に座って、こう、手を合わせたみたいなことも初めてだね。
橋本 どんな祠の前、どんな神社の前、どんな石地蔵の前、通るたびに祈ったよ、本当に。
木村 僕はね、つくづく感じたのは、撮らなきや撮らなきやって気持があるでしょう。
で次の日に天気がどうしようもなくて撮れないと、仕様 がねえよなあ−って、スバヅと割り切れるわけ。そういうのも初めての経検だね。

野村 だから、中途半端なものが何もないってことよ。
森谷 何となく、騙し騙しやる、中途半端なものを受けつけなかったっていう仕事じやないかな。
橋本 これは僕の考えだがね、やっばり雪の中ではね、物凄く荒々しい気持になるか、物凄く感傷的になるかのどちらかで、中間思想っていうのが、 わりとなくなる、ある意味でね。実はこれは手前味噌なんだけど、これからまた僕がホンを書く時にはね、今まではやや中間思想で作った物が 多かったけど、もっと荒々しい、もっともっと悲しい映画が、ひょっとしたら書けるんじやないかなって気がするね。
「八甲田」で一番僕に残っているのは中間思想っていうのはわりと役に立たんということだな。
神山 森谷監督、木村さん、これはもう鬼か気違いかって言われてたんですよね。それで、僕は、なだめ役ですから、ある面では仏様みたいな役割 でね。でも実はそうではなくて、鬼か気違いにならないと出来ない仕事だったと思います。
僕はね、この仕事やる前に演出の仕事をしてますし、そういう意味では大変よくわかった。
つまり、首脳部が仏様じやあ。(笑い)本当に鬼か気違いかって感じですね。

野村 恐らく、よそから見れば気違いが作った映画でしょううね。こんな事ってね、外部から見れば、絶対ブランは立たないし、やりようがない。
森谷 吉田さん(録昔)がね、途中で現場へ来て、雪上車から降りて皆んなの姿を見た時にね、ジーンと、気温と両方できたんだって。
胸が熱くなってね、涙が出たんだって。〃こんな所でやるのか、ここまで来てやるのか〃と思ったら涙が出てきたっていうんだけど、わかるような 気がしますね。
神山 私、潜越かもわからないけど、結局、知恵と技術を提供する人間がやっばり映画作りでは中心にならなくてはいけないという、それを教えて 貰ったという気がします。独立ブロっていうのは配給の力もないし、いつも何か貧乏籤引きながらやってきたと思う。まあ、いろいろなケースがあります けど。
橋本 でもうちは、なんだか、貧乏籤はあまり引かないようなことになっでるんじやないかな。(笑い)

森谷 これからはもっとそうなっててゆくべきだと。つまり、映画の思想ってのは何か、といったら作ることでしかないわけだから、そこにもう一遍立ち戻って考える。
そうしない限りは結局商売するほうだって作る側だってやっぱり、本当に果して作ることと、技術の思想みたいな事に対してどれだけ自分が自己確認しているかって ことが・…。それも間題があるわけよね。
橋本 それからもうひとつ。誰かに作らしてもらっているという気持ちが全くない。
自分達で作ってるんだという意識が百パーセントで・…・。

野村 ということでしょうねえ。
森谷 それでなかったら二十万フィートも回せないね。(笑い)僕は、十万フィート位がいいとこかなあと思ってたら”こののシャシンは ニ十万回さないと駄目になるぞ〃って言ったのは橋本さんでね。
僕も初めての体験。フィルムは企業内でも良く便う方だったけどこんなに回したってのは。

やっぱり、今橋本さんが言ったような事が根底にあるわけなんですよね。
橋本 作らして貰ってるって気持ちになったらもうアカンのじゃないのかなあ。
この集団全部で作っているという爆発力、そういうことじゃないのかなあ。



                                            (昭和五十二年四月)
 映画「八甲田山」 私の感想

映画というのは、限られた時間に、いかに伝えたい事を表現できるかという事を、おおまかに把握してから始めないと、締りの無い駄作になる危険がありますね。
いくら安く上げるといっても、数千万円はかかるでしょう。

それでアダルト映画のような刺激だけをアッピールして一稼ぎしようなどという怪しからん輩がはびこります。
嵌る人がいるからというイタチごっこもありますが・・。
「さくら道」も原作を読んでから映画を見ると物足らないですね。
NHKの「桜紀行、もう一つの旅」の方が、遥かに感動を覚えます。
「親鸞、白い道」も原作は膨大な量と難解で、とても映画に出来るものではないと思いますが、画面は美術的で凄味がありました。
その点、「八甲田山」は原作にも殆ど忠実で、三時間を感じさせない目を離せないシーンの連続です。
手元に台本がありますが、この台本はコンパクトに凝縮された、書き込みも何も無いのですが、現場ではト書きなどでビッシリなのでしょうね。
この台本を如何に膨らませて素晴らしい作品に仕上げるかがスタッフの腕の見せ所なのでしょう。
それを纏めるのが監督ですから、世界の一流の監督と言われる人は凄い能力の持ち主ですね。
私は「アラビアのロレンス」を作ったデビットリーンが好きですね。ロマンがあります。
「ウエストサイドストーリー」「サウンドオブミュージック」なども心地よい感動が余韻として残ります。
コッポラや「ラストエンペラー」のような映画も凄いとは思いますが、再度、見直したいとは思いません。
「八甲田山」は、ただ悲惨な戦争悲劇としてだけではなく、芥川也寸志さんの情緒ある音楽と共に、美しい日本の情景も描かれ、抒情詩 となっています。
製作スタッフも森谷監督、芥川也寸志さんは早世、橋本忍さん、野村芳太郎さんも今は亡き人です。
素晴らしい作品を世に残された皆さんに敬意を表し、時々拝見して蘇る感動に浸りましょう。

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