死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト | ||
芹沢光治良 死の扉の前で 74頁16行-79頁2行 「先生、今までのお話でよく判りました。真柱様は先生に一目おいていられるのですな」 「どういうことですか一目おいてるとは−」 「尊敬しているのでしょう……真柱様は先生に理想の真柱像を見せようと努力しているのです。 田園調布の若様のお宅で先生に話された教理、岳東大教会で大教会長に代って先生に謝罪した話、ほんとうに感動的ですね。これは真柱様が先生を尊敬して、懸命にご自分のよさを示して、先生との関係を深めようと努力しているのです……それを知って、うちの会長もそして私も、先生にお願いがあるのです。そのお願いのために、このように参上しているのです」 私はその物々しい言葉に戸惑って、彼の顔を見た。全く真剣そのものだった。 「先生、真柱様の友達になって下さい」 「え、友達だって−」と、可笑しさがこみあげた。 「友達にならなければ、真柱様は先生にご自分を示さないし、お考えも伝えません。先生、友達になって、真柱様がお道を復元すると信じて、実はとんでもないお道にしてしまうことを、防いで下さい。活字別の『稿本天理教祖伝』の草案の一部をご覧になっただけでも、とんでもない教祖伝を創ろうとしていることが、おわかりでしょう。真柱様に都合のいい教祖伝にして、それを信者に押しつけようとしています」 「真柱に都合のいい教祖伝つて−」 「根本的なことは、教祖ははじめから神で、人間ではないとしています。先生の親様は、一人の心優しい農村の主婦が、神がかりがあってから、神の思召(おぼしめ)しに添おうと五十年間超人的なご苦労をして、ようやく神の社(やしろ)となりますね。それが教祖の実像です。決してはじめから神ではなくて、人間であって、ただ神に近づこうと精進なさった。だから、教祖の雛型(ひながた)をふむという教理も成り立ちます。教祖が生れながらに神であるならば、雛型として人間は従えません」 「教祖が生れながらに神である方が、どうして真柱に都合がいいの」 「教祖様(おやさま)が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが『おさづけおはこび』をなさることに決っていました。『おさづけおはこび』は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代った信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になつたが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら『おさづけおはこび』をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は、天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振えないで、自制していたのでしようが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っ平に自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかつています。信仰面では明治教典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です……教祖伝で、教祖様(おやさま)を生れながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時時神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いで下さい」 「そのような危惧の念を抱くのは、君や君の大教会長ばかりではないだろう。本部の偉い先生方が、なぜ真柱に説いて、それをしないのですか」 「それは不可能です。真柱様は神の代理者です。その言葉は神の言葉として、教会長も信者も絶対に従い守らなければならないことに決っています。まして真柱様を説得するなどとは、理の上(教理上)で絶対にできないのです。ですから、信者でなくて、真柱様が一目おく先生に、お願いに上ったのです」 「それなら、彼が尊敬する大学の先生か学者に、適任者が幾人もいるではありませんか」 「それが、本部にお出掛けになる学者先生を考えると、半分は真柱様から物質的な援助を受けているので、その資格はありません。他の半分の学者先生は、天理教やお道の信仰が、どうなろうと関心がない方々ですから、頼んでも無駄ですが……先生は『教祖様』を読んでも、お道に対して深く理解と愛情を持っていますし、ご尊父の信仰からしても、お道に認識がおありなので、それに加えて、現に『教祖様』をお書きになっていて、真柱様も愛読しているのですから、説得力があります。先生お願い申します。真柱様の友達になって下さい−」 「友達になれ、なれと、言われても、たがいに子供ではなし、簡単に友達にはなれんよ。無理だなあ」 「先生、真柱様の場合は容易です。権力をもつ独裁者には、一つの盲点があるものです。あらゆる場合、すべての物を独占したいという慾求が、本能になっています。換言すれば、慾深ですから、それを満足させればいいのです」 私は呆然と答えようがなくて黙ってしまった。 「先生、真柱様は教祖様の書きのこされた『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言つて、教祖様がお話しになったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する怖れがあります。特に本席様を通じて二十年間親神がさしずしたお言葉は(これを『おさしづ』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大(ぼうだい)な史料として残っていますが、これを全部通読した者はないでしようから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句(タブー)だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしづ』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか……それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさつた史料について、将来のために記録して頂きたいのです」 「そうした史料は保存し、特別の施設をもうけて、図書館や参考館のように、一般に公開すべきでしょうね」 「全くそうです。そうしたことも、友達になられれば、真柱様に忠告できますでしょう。ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけれど、立派なお方のようですよ。昭和十二年の一月に七十五歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向い、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞……松竹梅でおさめまいらせ候と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて、教祖様(おばあさま)のところへ参りますと、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引きとったそうです。私は感動してその婦人を詰所(つめしょ)にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎(とが)めがあったのでしょうね……先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて……神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」と、賀川氏は改めて畳に両掌をついた。 |
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